自然災害について私たちができること 今日を一生懸命に生きることが被災地のためになる

台風15号の影響で千葉では大規模な停電が今なお続いています。
停電で苦しまれている方々のご苦労を心から推察すると同時に、一日も早い復旧をお祈りいたします。

最近、異常気象による災害が本当に増えました。
私が子どもの頃には、梅雨が災害になるというイメージはまったくなかったのですが、
今は梅雨でもたくさんの方が苦しまれる時代となりました。
今は千葉で災害が続いていますが、先日は佐賀で大雨災害があり、今なお佐賀では苦しんでいる方がいらっしゃると思います。去年は西日本豪雨があったばかりですが、広島をはじめとする地域でも、今なお苦しんでいる方がいらっしゃると推察します。北海道地震でも、大規模な土砂崩れがあり、復旧は今なお続いているものと推察します。

もう、異常気象が普通になってきたのだろうと思います。
異常もありふれて起こればそれが普通になるわけですが、
異常気象や異常気候も、これからのスタンダードになっていくのだろうと思わざるをえません。
私たちは新しいスタンダードを見据えて、日頃から備えをしていかなければならないのだろうと思います。

秋田では幸いにも洪水の被害はなく、ありがたいことに今日を生きることができています。
災害に遭わなかった私たちにできることはいったい何でしょうか。
もちろん、ボランティアに行ったり募金をしたりできれば一番理想的ですが、仕事や学校、家庭のことがあって、そう簡単には被災地にボランティアに行けないという人も多いだろうと思います。
そんな私たちにできることは、今の持ち場で今日を一生懸命に生きるということなのだと思います。
目の前のやるべきことに集中する。
仕事や勉強や家事や、その他いろいろな雑事が貴重なのです。
今の自分が今までどおりやってきたことを今までどおりに一生懸命に集中する。
それが日本を活性化し、まわりまわって被災地のためになるのだと思います。

千葉市長が「自粛はご遠慮ください」と発信されていましたが、
そのとおりだと思います。
私たちは普段通り生き、そして今の自分の仕事に集中するべきなのです。
今日を一生懸命に生きる。
みんなが今日を一生懸命に生きれば、日本全体が活性化します。
それは必ず被災地のためにもなります。

もし余力があれば、ボランティアに入ったり、募金をしたりすればよいでしょうし、
私たちは普段からそんな余力が生まれるように努力できたら100点なのだろうと考えます。
もし無理と感じるようであれば、
普段の仕事、家事、その他雑事やるべきこと、そんなことをぜひ大事にしてください。
それが必ず他人のためになるでしょう。

私は普段は秋田県産のものを買っていますが、
秋田県産にこだわらず、いろいろな各地の産物を買おうと思います。
これからは梨の季節ですが、ふなっしーでも有名な船橋市の梨もおいしそうですね。

千葉の停電被害が一日も早く復旧されることを祈ります。
千葉に限らず、佐賀や広島や、その他大雨災害で苦しまれている方の復旧を祈ります。

やさしさは余裕から生まれる 無駄が余裕を作り、やさしさを生む

私たちは誰でもやさしい人が好きだと思うのですが、では、私たちはどうやったらやさしくなれるのでしょうか。
やさしくなることは誰でもできます。
やさしさは余裕から生まれるからです。
余裕を持つことができれば、どんな人でもやさしくなることができるでしょう。
逆にいえば、余裕がない人はやさしくはなれません。

余裕があるとは暇であるということですが、
誰だって暇でぼーっとしているよりだったら、誰かの役に立っていた方がうれしいと思うでしょう。
誰だって「助けて」とか「力を貸して」と頼られたら、うれしいと思うのです。
暇なときは特に。
反対に、忙しいときに頼られたら、誰だってうざいと感じると思うのです。
そんなこと自分でなんとかしてよ、と誰だって思うし言うと思うのです。
余裕がないときに他人にかまっていることはできないし、他人に頼られたら迷惑千万なのはやむをえないことです。

そう考えたときに、現代日本社会とは本当に余裕がない社会だと思います。
現代日本社会とはやさしくない社会です。
それは私たちがまったく余裕がないからです。
現代日本社会は効率主義で、とかく人件費の削減とか人員削減とか、無駄を省き、効率化を推し進めてきました。
結果としてまったく余裕がない社会となってしまい、
人はいつも何かに追われて、やさしくなる余地がなくなってしまいました。
そんな中で、例えば自殺の問題とか、不登校やひきこもりやいじめといった問題が現れてきたように思います。

私たちは余裕を持つべきであり、それは無駄を認めるということでもあります。
余裕は見方を変えれば無駄でもあるかもしれません。しかし、ある程度の無駄は見方を変えれば余裕でもあるのです。
そんな余裕が私たちをやさしくさせ、私たちを豊かなものにするのです。

行き過ぎた効率主義と管理主義は、余裕を失わせました。
そして、私たちはまったくやさしくなれなくなりました。
日本人は「迷惑をかける」ということにものすごく敏感であり、神経質です。
それは余裕のなさの結果でもあります。
お互いに余裕がないからこそ、迷惑をかけたりかけられたりということに神経質になるのです。
そして、迷惑をかけるということに神経質になった結果として、私たちはますます孤独になっていったようにも感じられます。

余裕は作りだすものでもありますが、
余裕を作りだして、人にやさしくありたいものですね。
また、社会全体で余裕を作りだして、
お互いにやさしくなれる社会にしていきたいものですね。

一緒に努力していきましょう。
そして一緒にやさしい余裕を作っていきましょう。

努力することは無駄なのか 失敗した努力の価値とは? 釈迦の努力の失敗例に学ぶ

努力は無駄なのでしょうか。
私たちは往々にして「努力しても無駄である」と言いがちです。
そして、努力することを諦めてしまいがちですが、
果たして努力とは無駄なのでしょうか。

ここで思い出すのは釈迦の例です。
仏教の開祖である釈迦もまた努力が実らず、失敗した経験があります。

釈迦は悟りを求めて、苦行生活を始めます。
5人の仲間たちも集い、断食をはじめとした苦行の修行に打ち込みます。
そして6年間苦行修行をしますが、悟りを開くことはできません。
ついに感極まった釈迦は、村娘スジャータから乳粥をもらい、こんな苦行修行では悟りは開くことはできないと決断し、苦行修行を断念します。
そんな釈迦を見た5人の仲間たちは、「あいつは堕落した」と釈迦を見限り、釈迦の下を去っていきます。
釈迦の苦行修行は大失敗に終わります。
当初釈迦は苦行修行で悟りに至ることができると思ったと思いますが、6年の後についに悟りに至ることはできず、努力は実らなかったことになります。これはまさに大失敗だったでしょう。

しかし、釈迦はその後、瞑想生活に入り、さまざまな誘惑に打ち勝ち、ついに菩提樹の下で悟りに至ります。
釈迦は最終的にその目的であった悟りを開くことに成功します。
この悟りに至るまでには、6年間の苦行修行とその失敗がありました。
そんな失敗があったからこそ、釈迦を成長させて、真の悟りへと導いたと考えるのは不遜でしょうか。

失敗は人を成長させます。
確かに努力は実るとはかぎりません。
現実問題として、努力は実らない場合が多いかもしれません。
その度に私たちは絶望にうちひしがれるわけですが、しかし、努力は確実に私たちを成長させます。
努力は実りを結ばないかもしれませんが、しかし私たちは成長します。
そんな成長が、いつかは成功へと導いていくものです。
仮に成功しなかったとしても、私たちは確実に成長し、そんな成長は私たちの喜びになり、自信となります。
そして、これからの人生をいきいきと生きていくことができるでしょう。

人生に近道はありません。

確かに釈迦の苦行修行は失敗しました。
では、始めから苦行生活などしなければよかったのかと言うと、難しいところです。
おそらくその苦行なくして始めから菩提樹の下で瞑想生活をしたとしても、悟りは難しかったかもしれません。
もっとも、釈迦は苦行生活では悟りは開けないと理解したわけで、私たちが同じように苦行生活をしようとすれば釈迦は止めるかもしれません。
いずれにせよ、人生に近道はないのです。
努力は失敗するかもしれません。
しかし、その失敗の果てに未来があることもまた事実なのです。

努力は努力そのものに価値がある。
努力は努力することに意味があるのです。

一緒に努力していきましょう。
そして自らの成長を喜び、次の努力に打ち込んでいきましょう。
いつか必ず未来は見えてきます。

【予告】本を出します【同人誌即売会イベントでの頒布を計画中】

今、私は本を執筆しています。
2019年11月24日(日)に開催される同人誌即売会イベント「コミティア130」(東京ビッグサイト開催)での頒布を計画中です。
もし実現できれば、人生導師高山康弘としての初出版本となります。

この一週間、私は動画を更新しませんでしたが、裏では本の執筆やコミティアへの申し込み手続きや、東京への飛行機の手配などを行っていました。本当にあっというまの一週間で、気が付けばもう土曜日でした。
すっかり動画を更新せず、失礼しました。

本は文章のみの形式で、漫画ではありません。そんなに厚いものにもならない予定です。
本というよりは冊子というような仕上がりになりそうです。
コミティアはオリジナル漫画メインの同人誌即売会ですが、オリジナルであれば文章のみの本もOKとなっており、その場をお借りして本を頒布したいと思いました。

あくまで同人誌という形で、印刷屋さんにお願いして印刷してもらって後は手売りという感じであり、自費出版でもないのですが、とにもかくにも初出版本となります。
コミティアは席に限りがあり、申し込みは抽選となります。
もし落選すれば話は変わってきますが、仮に当選したとして、11月24日に私自身が上京し、東京ビッグサイトにて初出版本を頒布する予定です。

落選した場合は、別の同人誌即売会イベント等の何らかのイベントに申し込み、本を頒布できるような機会を再調整したいと思います。
いずれにせよ、近々のうちに本を一冊書き上げ、それを世に出したいと計画しています。

情報は随時このサイトにてお流しします。
ぜひお楽しみにお待ちください。
私も楽しみにしています。
どうかよろしくお願いします。

神仏を信じることは間違っていない 自らの信仰を告白する

生涯、寿命尽きるまで人生導師として生きるという決意を宣言した日によせて、自らの信仰について語りたいと思います。
私は今、宗教家と名乗っているわけですが、そもそもなぜ宗教家と名乗ろうと思ったのか、その背景について語りたいと思います。

現代日本社会では、宗教は悪と思われています。
宗教を信じることは否定されているのが現実です。
そうなってしまったのはやむをえないと思います。
例えばある宗教団体が毒ガスを使用して多数の市民を殺害した事件もありました。
霊感商法や強引な勧誘など、少なくない宗教団体が少なくないトラブルを起こし、そのために、現代日本人はすっかり宗教に警戒感を持つようになり、強い忌避感を抱くようになりました。
そうなった事情も理解できるのですが、それは宗教そのものが悪であるというように行き過ぎてしまった感があるように思います。言うまでもなく、人々の信仰心を悪用している一部の人間が悪なのであって、宗教や信仰そのものが悪なのではありません

そもそも、私たちは神を信じています。
もちろん無神論者の方もいらっしゃるでしょうし、それは否定しませんが、現代日本人で本当の無神論者の方は少ないと思います。大抵の日本人は、自分は無神論者と言いながらも、神を信じています。
例えば、元日には初詣に行くと思いますが、そこで「宝くじ当たれ」とか祈ってはいないでしょうか?
たいていの人は初詣に行くのではないかと思いますが、そこで学校に合格させてくださいとか、病気が治りますようにとか、交通事故に遭いませんようにとか、祈ると思います。
その時点ですでに神を信じているわけです。

もっとも神や仏を信じるのは、自分や親しい人に死が迫っているときです。
普段は神や仏を感じることはまずないかもしれません。
しかし、死が迫っているとき、人は神や仏の存在を感じます。
真剣に神に祈りたいと思うのです。仏にすがりたいと思うのです。
生きたい、生きさせてください、と人は願うのです。
自分や愛する人に死が迫っていても、それでも神や仏を信じることなく、従容とその死を受け容れられるとしたら、本当の無神論者なのでしょうし、それはそれで尊敬されることだと思います。そのような生き方を否定しませんが、たいていの人は、死の前には無力であり、死が迫っているとき、その死を回避したいと願い、また回避できないとしたときに、死後は自分はどうなるのだろうと真剣に考えるものです。
それが人間の偽らざる真実です。

当は神仏を信じているのに、信じていると言えないのが現代日本社会の真実でもあります。
人々は同調圧力に負けて、自分は無神論者であると言っているのにすぎないのが現実です。
そして、本当は信じているのに信じていると言えないことが、一つの苦しみを生んでいることもまた事実だと思います。
素直になればいいじゃないかと私は思うのです。
信じているのであれば、信じていると素直に言えばいい。
けれども、そうはできない現代日本社会の中で、信仰について語ることができず考えることもできず、すっかり疲弊して苦しんでいるのが偽らざる私たち現代日本人の姿だと私は思うのです。

私は現代日本社会の価値観の狭さをいつも批判していますが、もっとも狭いと感じるのがこの宗教についてです。
この価値観の狭さ、宗教を認めない価値観の硬直さと閉塞感こそが、私たちの苦しみの根源であると思いました。そんな閉塞感を打破し、真の心の自由をつかみたいと思ったのです。
そのために、私は宗教家を名乗ろうと思いました。
宗教家と名乗ることは、現代日本社会では極めて危険なことであると思いましたが、現代日本社会の価値観を変え、私たちが真の心の自由を得て幸せに至るためには、宗教家になるしかないと思ったのです。

もし神を信じているのであれば、素直に信じていると言えばいいのです。
それだけで、一つの苦しみから解放されます。
もし私たちがそれぞれに信仰を語ることができれば、
私たちはその信仰についてお互いに意見を交換することができます。
そんな議論を通して、私たちは信仰について学び、思想を深めることができます。
それはひとつの人生を生きる道しるべとなるでしょう。

何より、神仏を信じ、祈ることで、私たちは精神を統一し、心やすらかになることができるでしょう。
そんなやすらかな落ち着いた心で人生に向き合うことができたならば、
きっといろいろな問題が解決できるのではないかと思うのです。
仕事にせよ勉強にせよ、落ち着いた心で向き合ったときに集中して取り組むことができ、いろいろな成果を生むことができるのではないかと思うのです。
もちろん何かの利益を得るために祈ることはよこしまなことかもしれませんが、そうやって生きているのが人間の偽らざる実存であることもまた事実だろうと思います。

本当の自分を肯定する。それが生きることの第一歩だと思うのです。

私は子どもの頃から神の存在を信じてきました。
私は一度も特別な宗教団体に入ったことはなく、その信じる神は何教でもありません。
何教でもないのですが、とにかく私は神を信じてきました。
その神がいったい何なのか、正直に言えばよく分からないのが現実かもしれません。
(私が語る神の世界は、推論を重ねているに過ぎないのかもしれません)
しかしはっきり言えることは、私は神を信じているということです。
私には信仰がある。神を信じる気持ちがある。
それははっきりと言うことができます。
それが私の信仰であり、私の宗教の出発点です。
そしてそれが「魂の戦友」の原点でもあります。

神はいつも私たちを見守っている。
私はそう思ってきました。私はいつも神に祈っていました。
それだけです。
それが私の真実です。

あなたはあなたの心の中に現れる神を信じればいい。
あなたの心に現れた神と私の心に現れる神は同一です。
もし神を信じることについて一人では心細いと思うのであれば、一緒に神を信じていきましょう。