歳を重ねることについて、花木と私たち

人間世界では、歳を取ることは一般的にネガティブなこととしてとらえられがちである。
若いときがすばらしく、若さを失えば人生の価値は低下していくかのようにも語られがちであるが、
そんなときに思うのは、植物の世界である。
動物の世界であれば、歳を取ること、高齢になることはあまり歓迎されないのかもしれないが、
植物の世界であればどうだろうか。

たとえば桜。
若い桜なんて誰も価値を持たないのが現実かもしれない。
幹の細い小さな背丈の桜を見ても、私たちは素通りするだけだろう。
ある程度樹齢を重ねて、壮年となった桜を見て、
私たちは感動して、その木の下に集まって花見をしたり宴会をしたりするだろう。
そして桜は成長し続ける。
樹齢100年も超えてくると、美しいだけではなくてどことなくありがたさも生まれてくるように思う。
樹齢数百年の桜ともなってくると、確かに幹や枝を見ると高齢になったことは感じられる。
枝がまがりくねったり、幹も割れたりして、老いていることが実感される。
しかし、そんな桜に咲く花を見て、私たちは新しい感動を感じることもまた確かである。

現実問題として、桜のようには感じられないのが人間世界の「老い」なのかもしれないが、
同じ高齢といっても、その価値に植物と動物では天地の差があることにせつなさを感じざるをえない。
例えば秋田は杉の国であり、秋田杉は有名である。
たまに巨大な秋田杉の幹を輪切りにしたものが展示されていたりするが、
そんな幾重にも重なる年輪を見て、私たちは感動を感じることもまた事実である。
木はうまく育てば私たちよりもはるかに長い時間を生きる。
そして時間をかければかけるほど木は美しくなっていく。
以前埼玉に住んでいたとき、春になると群馬県館林市のつつじが岡公園にはよく行ったものであるが、
そこには樹齢800年のツツジを筆頭として、樹齢数百年レベルのツツジが多数生きている。
なんというかあまりにも巨大な木々で、
道路脇や公園などで見るようなツツジとはあきらかに一線を画しており、
何かちがう生き物のようにすら見えてもくる。
そのあまりにもの大きさとそこに咲くツツジを見てただただ圧倒されるだけである。

私たちもまたそんな花木のように生きたいと願うばかりである。
ヤマユリは最初の数年は葉を伸ばすだけで花をつけないと言われている。
何年も経って、やっと一輪の花を付ける。
それから年を追うごとに付けることができる花は増えていく。
中には一つの株に10輪も20輪も付けるような大きなヤマユリもあるが、
何年生きてきたのか分からない。
いずれにせよ、年齢を重ねないと美しくならないのが花というものであるが、
果たして私たちはどうであろうか。
身体的な美しさはともかくとして、
人間的な成長は終わりはないと考えられるが、
これからも私たちは自分自身を鍛えていきたいものである。

◆今日の写真
今朝の秋田は大雨である。
雨が降ると草はすごい勢いで伸びる。
草やカエルなどは大雨を喜んでいるのかもしれないが、
私たちにとっては参ったものである。

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願いを追いつづける真摯なまなざし

先日、横手市増田まんが美術館を訪れた。
秋田県横手市にある美術館で、『釣りキチ三平』の作者である矢口高雄さんの出身地が横手市(旧増田町)ということで、
横手市増田に建てられた美術館である。
今は『小畑健展』を開催していて、それが終了日間近となり、
同じく横手市の秋田ふるさと村にある秋田県立近代美術館とハシゴするようなコースを考えて
行ってみることとした。

個人的に衝撃だったのは、当たり前ではあるかもしれないが、
観客層が若いことで、全員20代くらいであり、美術館スタッフも同じように20代くらいであり、
私があきらかに観客で最高齢で、しかも10歳以上引き離して最高齢のように感じられた。
たいてい美術館なんて客層は中高年が多かったりするものだが、
もちろん展示によりけりかもしれないが、
若い人ばかりという光景に驚いた。

小畑健展に入ると、やはり若い女性が真剣に原稿を眺めていて、
漫画家を目指していたりするのだろうかと思ったりした。
美大生のような雰囲気が漂っている感じで、
単なるファンではなくて、絵の描き方の技を盗もうとしているようなまなざしにも見受けられた。
展示の最後の方では小畑健さん本人がインタビューに答える映像が流れていて、
ご本人が絵を描く手元の映像も放映されていたが、
そういう映像を真剣に見入る若者も多いのだろうと思ったりした。
個人的には私が小学生くらいのころに少年ジャンプで見た作品の絵が展示されていて、
「ああ、見た見た見た」
ととても懐かしくなった。

若者男女ばかりが集う美術館で、単に漫画が好きな人もいれば、
絵を描くのが好きな人もいれば、漫画家を目指している人もいたかもしれない。
何か共通するような、そこはかとなくただよう『願い』。
そんな願いを追い続ける真摯なまなざしを見て、
生きるエネルギーとはまさにそんな願いから湧き上がるものであると
あらためて思ったところだった。

願いを実現しようとする情熱は若者の専売特許のように思われがちではあるが、
そういう願いこそ、若者時代を過ぎた私たち中高年が持ちたいものであると
私は思う。
学生時代や若き日は誰もが情熱に燃えていただろう。
そして、アラサー、アラフォーとなっていって若いとも言えなくなって
いつしか願いを実現しようという情熱がばかばかしいと思ったりするように
なっていないだろうか。
そして現役も引退して高齢者と呼ばれるような年代になって、
もう人生の残りも少ないし、願いなんて考えることもできない
と思ったりしてしまうのが現実であるのかもしれない。

私たちは時として死にたい自殺したいと思ったりすることもある。
それはまさに願いが絶たれたときではないだろうか。
生命エネルギーとはまさに願いから立ち昇る。
そんな願いを絶たれたときに絶望を感じるのは自然なことであるだろう。
近年は若者の自殺の人数が減らないことが注目されているが、
願いを抱くこともできない閉塞感が現代日本社会には満ちているのかもしれないと思う。

そもそも願いを抱くことすらばかばかしいをこえてしまって、
願いを抱くことすらも忘れてしまったのかもしれない私たち。
願いを追い続ける真摯なまなざし。
それは誰もが持てるものであり、年齢は関係がない。
願いを実現した結果にも幸せはあるかもしれないが、
むしろ願いを抱きながら努力し続ける過程にこそ
幸せはあるように思う。
20代、そこから30代40代、そして50代60代70代となって、
私たちは人生をどう生きるのだろうか。
願いを抱く。願いへ向けて努力する。
そもそも私たちは願いを抱くことすらもばかばかしいと
忌避しがちであるのかもしれないが、
何事もスタートは願いを抱くことであり、
そんな命のエネルギーの意味を私はこれからも語り続けたい。

さて、美術館内では「ウオオォォォー」
という言葉の形をしたソファが置かれているが、
何かの漫画に由来があるのだろうとスタッフに尋ねてみた。
そうしたら高橋よしひろさんの『銀牙』シリーズに由来があるとのことだった。
高橋よしひろさんもまた秋田県出身の漫画家であるが、
子どもの頃に高橋よしひろさん作の『銀牙 -流れ星 銀-』を熱く読んでいたことを思い出す。
ウオオォォォーと漫画の中には何度も出ていたかもしれないが、
あまりにも当たり前のことすぎて心には留まっていなかったかもしれない。
そんな雄叫びというか情熱は、当時の私にとって、あるいは当時の私たちにとって、
あまりにも当たり前のことすぎるものだったように思う。
そんな子どもの頃の想いをあらためて思い出した。

◆今日の写真
今朝は雨は降っていないものの、空は厚く雲におおわれている。

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地元のお店に入ってみよう!

昨日、本を買いたくて秋田市内のとある書店に入った。
図書館で貸しているような本でもなく、
大手通信販売サイトを利用しようかとも思ったが、
地元のお店で買って地元が潤って秋田に税収が入ることを微弱ながらも意識したいと思い、
とある書店に入った。
その書店は私が子どもの頃(40年近く前)にはすでに存在していた書店で、
本が売れない時代、そして大手通信販売サイトの隆盛によって次々と書店がなくなっていく中で、
秋田市内で連綿と商売を続けている書店である。
まだ行ったことがない支店をのぞいてみようと思って昨日行ってみた。

書店に入ったのは久々だったかもしれない。
全国に展開しているような大手書店とはまた違う雰囲気で新鮮である。
私が子どもの頃のようにやはり子ども向け、若者向けの商品が充実しているような気がする。
私が子どもの頃はファミコンのカセットや一枚20円のトレーディングカードなどが販売されていて、
そんなのを熱心に買ったりしたものだった。
今は中学生や高校生が関心を持つような文房具や雑貨が充実していて、
トレーディングカードも販売されていた。
思えば学習参考書や問題集などは図書館で借りるようなものではなく買うしかないものであるが、
(買わなかったら書き込みやマーカーで線を引くといったことができない)
今の書店の主力商品は学習図書なのかもしれない。
書店を見渡してみると、学生向けの参考書や資格試験の参考書などが大きな一角を占めているし、
次にマンガが一角を占めていて、雑誌類がさらにもう一角を占めている。
参考書、マンガ、雑誌、どれも図書館で借りるようなものではないかもしれないと思ったときに、
図書館と一般書店での不思議な棲み分けがいつの間にかできているのかもしれないと思ったりした。
逆に言えば、今の出版社のお得意先は図書館であって、
全国の図書館に買ってもらうことで出版社は成り立っているのかもしれない。

今も昔も本屋とは子どもたち若者たちが買いにくるところであることは変わっていないようだ。
マンガコーナーを見て、絵柄は最近の画風らしく変わっているが、
多分そこで描かれているテーマは変わっていないのだろう。
人間の生きざまや感情といったテーマは変わっていないんだろうと勝手に想像する。
文房具が充実しているあたり、
昔よりも今の若者の方が勉強しているのかもしれない。
文房具なんてどこで買っていたかも忘れてしまったが、
当時は中学校高校には学内に売店があったもので、そんなところで文房具を買っていたようにも思うが、
今はどんなものだろうか。

お目当ての本は無事に見つけることができた。
会計をクレジットカードで払おうとしたら、
店員さんは慣れていない様子で、決済までに時間がかかった。
たぶん、あまりクレジットカードで払う人がいないのかもしれないし、
思えば子どもや若者がクレジットカードを持っているわけもない。
子どもたち若者たちがやはり集っているのかもしれないと思ったりした。

最近は通信販売が花盛りであるが、
お店で買うというリアルな感覚はやはりいいものである。
商品現物を見られるだけではなく、お店の空気を感じるだけでも、
私たちは何か生きているという実感を感じられるような気がする。
もちろん、通信販売であればありとあらゆるものを検索できて、
秋田では販売されていないようなものが見つかることも事実で、
どちらも一長一短ではあるが、
まずは地元のお店をのぞいてみて、それでもなかったら通信販売
というのがいいのかもしれない。
(もちろん値段が安い方がいいことも確かではあるが)

またコロナウイルスが流行をし出している。
リアルな人間同士の交流を阻害するという意味でも
コロナウイルスというのはきわめて重大な問題である。
私たちは人間同士のふれあいの中で生きている。
オンラインではなかなか伝わらない生の雰囲気はあるもので、
最終的に私たちは会って交流することで何かを感じることができるだろう。
これからも地元のお店をのぞいていきたいと思っている。

◆今日の写真
今日は雨が止んだ。
しかし、雲は厚い。

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成功とはいったい何だろうか?

成功とはいったい何だろうか。
私たちは成功といったときに何を思い浮かべるだろうか。
大金持ちだろうか。
美男美女にかこまれることだろうか。
勝利することだろうか。
人それぞれのイメージがあってそれに違いはあったとしても、
おそらく大同小異なのかもしれない。
ひとつ共通して言えることは、
誰でも成功を追い求めているということだろう。
私たちは違いはあっても幸せを追い求めているとは何度も語ってきているが、
同様に、私たちは成功を追い求めている。
そしてそれが幸せであると考えている。

さて、成功とはいったい何だろうか。
私が思うことは、継続するということと考えている。
継続すると言われると、なんだそんなことか、
そんなこと誰だってできるわい、
と言われてしまうかもしれない。
しかし、どうだろうか。
私たちは継続できているだろうか。

例えば文学では小説家を研究しているが、
「生きている間は評と言われる、亡くなってから研究と言われる」
と大学時代の文学の授業で習ったことがある。
理由のひとつとして、小説は書き直されるということがある。
小説家が生きている限り、小説は何度も書き直される。
つまり、同じタイトルの作品でも、
初版と後期の版では内容が違っているということがあるということである。
だから、その小説家が亡くなって書き直されることがなくなってから、
はじめて研究が始まるというのである。

私たちは生きている限り何が起こるかわからない。
棺の蓋が閉じられるまでは、何が起こるかわからない。
そう考えたときに、よくテレビ番組などで、
たとえば芸能人なり社長なりなどが成功者として紹介されて、
その人がいかに成功できたかを語るようなことがあるが、
その後、その人がその成功ぶりを継続できるかどうかはまったくわからない話である。
確かに今の今は成功者として脚光を浴びているかもしれないが、
その輝きが継続できるかはまったくわからないのである。
現に成功者として脚光を浴びた人であっても、
その後没落していった人について枚挙にいとまがないことは私たちも感じているはずである。
もちろん一度没落してまた復活する人も枚挙にいとまがない。

継続するとは、実はもっとも難しいことかもしれない。
たとえば日記やダイエットの三日坊主あたりから、
私たちは継続することの難しさを感じるかもしれない。
特別何かをしようとしなくても、
今の今の人生を継続することもまた難しいと私たちは思うことだろう。
これからの日本あるいは世界の先行きの不透明さは誰もが感じているところだが、
今こんなふうに食べられている生活がこれからも続けられるのか
私たちはつねに不安を感じていることは事実かもしれない。

そう考えたときに成功とは、
生き続けることそのものでもあるのかもしれない。
生きることを継続することそのものが、実に大変である。
時として自殺したい、死にたいと思うのが人生であるのかもしれない。
生きる、生き続けるとは、実に大変なことである。
わざわざ成功とか失敗とか評価することではないことは重々承知であるが、
しかし、そのくらいに、生の継続とは大変なことである。

私たちは他人からの評価を求める存在である。
しかし、評価とはうつろいやすいものである。
究極的な評価とは、自分が死んだ後でなければ定まらないものかもしれない。
死んだ後に評価されてもうれしくないのは確かである。
それでも、他人の評価とはそんなものにとどまることもまた事実かもしれない。
つまり、成功とは自分自身の評価である。
自分自身が成功と思えなかったら成功とは言えない。
継続することが成功だとして、
やりたいと思ったことが明日もできていたとしたら、
それでもう十分ではないだろうか。

さて、私たちは継続できるのだろうか。
自分が願った何かを実現させるための努力を継続できるだろうか。
それ以前に、自分が願った何かを願い続けること自体を継続できるだろうか。
別に願いが実現しなくてもいいし、願いそのものが消えてしまってもいい。
私たちは今日を生きている。
生きるということを継続していきたいものである。

◆今日の写真
今日もまた雨が降り続いている。
梅雨前線は刻々と北上しており、
いずれはここも集中豪雨になるのだろうか。
覚悟とは難しいものである。

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幸せの根源は「おいしい」

幸せって何ですか?
という問いはきわめてシンプルでありながらきわめて難しい問いのひとつである。
いずれにせよひとつ確実なことは、
ひとそれぞれ幸せのありようはちがったとしても、
誰もが幸せを求めているということである。
共通した定義が難しいのに誰もが幸せを求めていると言えるのは不思議なことであるが、
人間の真実の実像と言うほかはない。

思うこととしては、幸せの根源的なもののひとつに「おいしい」ということが挙げられるように思う。
つまり、味覚としての「おいしい」であり、食事の「おいしい」である。

「おいしい」ということには多層的な意味がある。
ひとつは生存のための食事であり、
人間は誰もが食事をとらなければ生きていけないわけであり、
単に生存として食べるという意味での「おいしい」は大切である。
腐っているものであればたいていはまずいものであるが、
おいしいということは適切な捕食の上で意味を持っているだろう。

さらに次の話として、
リラックスしたり、こころをおだやかにするという意味での「おいしい」が出てくる。
かりにひとりで食事をするとしても、
食事をすることでこころが休まるということはある。
ちょっとお茶を飲むというだけでも、私たちはこころをおだやかにしたり、
ストレスのような何かを鎮めたりするということはあることである。

そして、親しい人たちと語り合いながら食べるという「おいしい」がある。
同じ食べ物でも、親しい人たちと集まって語りながら食べたときに、
「おいしい」という感覚は倍増するものであるだろう。
なんてことはないチョコレート一片だとしても、
友だちや家族など親しい人たちと分け合って食べるときに、また違った味わいがある。
逆に本来であればとてもおいしいはずの高級料理でも、
本来だったら来るはずの誰かが事情によって来れなくなってしまって、
料理だけが残されてしまってそんな料理をひとりで食べたとしたら、
あまり深い味わいはないかもしれない。

生きてゆけるという意味において、食べるということは極めて大事なことであり、
飲むということもまたそこには含まれる。
その意味で「おいしい」という要素は、幸せの根源として重要な要素と考えている。

「おいしい」というのは実は当たり前な感覚ではない。
誰でも風邪を引いたときに料理を深くは味わえないかもしれないが、
病気になると「おいしい」という感覚は難しくなってしまう。
深く悩んでいるときもまた、「おいしい」という感覚はどこかに飛んでしまうかもしれない。
おいしくもないのに食べるということは大変なことであり、
食べられなくなったときにいよいよ生命の危機は深まってしまう。

ちょうど私が大学生の頃合い、およそ20数年前に、
成人病が生活習慣病と言い替えられたことがあった。
高血圧や糖尿病といった病気は実は生活習慣にあるということで、
つまり「おいしいもの」を食べ過ぎて運動もしないということが病気を引き起こしている
ということで生活習慣病と名前をあらためられたわけであるが、
今思えば、それはバブル景気の時代だからこそ起きたことなのかもしれない。
今となってはそんなおいしいものを食べたくても食べられないという時代なのかもしれない。
それを踏まえた上で、私が重視したいのは、
「おいしい」と思えることの大事さである。

秋田弁に『け』という言葉がある。
「かゆい」とか「こっちにこいよ」というときにもただ一言『け』と言ったりするが、
「食べてみて」というときにもただ一言、『け』と言う。
何かおいしいものをたべてほしいと薦めるときにただ一言『け』と言うのである。
自信作の料理であれば『まんず、け』とか言うかもしれない。
標準語訳すれば「(ああだこうだ言わないで)まず食べてみてほしい」というところだろうか。
もし相手が落ち込んでいたりして、そんなときに元気を出してほしくておいしいものを進めるのであれば、
『け』
と一言だけ言うかもしれない。
たぶん秋田人ならばそうかもしれない。

やっぱり食べるということはきわめて大事なことである。
それは単に私たちひとりひとりが生物として生きられるという意味を超えている。
私たちは協力する存在であるが、
お互いの愛情や友情やそんな思いを確かめるために何かを一緒に食べるかもしれない。
そして、お互いに励まし合ったりするために、
何かを一緒に食べたり、何か食べ物をあげたりするかもしれない。
「おいしい」とは、
幸せの源泉でもあり、それは愛情の源泉でもあるかもしれない。
私たちの幸せとは、実はそんなところから始まっていると考えている。

今、梅雨の長雨が続いている。
熊本県の球磨川の水害があった矢先であるが、さらに福岡県でも水害が起きているというニュースを聞いた。
ただお湯を飲むだけでも、私たちはこころがやすらぐかもしれない。
誰かから差し出されたお湯を飲むだけで、私たちはほんのすこし前向きになれるかもしれない。
雨の勢いが弱まることを願っている。

◆今日の写真
朝は雨が続いていたが、今は雨は止んだ様子。

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