特攻を語る あの日あのときに生まれていたとして そして将来に今の心を持てるか

みなさんこんにちは。人生導師やっちです。
お元気されていますでしょうか。

大東亜戦争(太平洋戦争)を語る上でもっとも重要なポイントは「特攻」と思われます。特攻を語らずして大東亜戦争を語ることはありえないと思われますが、今回は特攻について語ります。

特攻という事実を聞いたときに、私はまったく他人事ではないと思うのです。
なぜなら、私もまた、当時あの日あのときに生まれていたとするならば、特攻隊に志願しようと思ったかもしれないと思うからです。
なぜ、私たちは当時あのときに特攻隊に志願したのでしょうか。
人間には誰しも「誰かの役に立ちたい」とか「誰かのために尽くしたい」という気持ちがあります。その心は古今東西変わらない人間の気持ちであると思いますが、そんな気持ちが発揮された一つの形が「特攻」であったと考えます。

強制された形や命令という形もあったかもしれません。
しかし、純粋に自分の意志で特攻隊に志願した若者もいただろうと想像します。
なぜそんな彼らは特攻隊に志願したのか。
それは純粋に「誰かの役に立ちたい」という今の私たちも抱く普遍的な感情だったのではないかと思うのです。
誰かの役に立ちたい、誰かのために尽くしたい。
今で考えれば崇高なボランティア精神のように思われますが、そんな心が、当時の価値観の中で、「お国のために尽くしたい」とかあるいは「天皇陛下のために尽くしたい」「報国報恩」という気持ちになっていったのだろうと想像します。

現代の価値観で考えれば、特攻、つまり自分の命を投げ出して誰かのために生きる、しかも誰かを破壊し殺傷し、自分も死ぬ形で誰かのための役に立とうとする・・・・・・。そんな精神はとても考えられないことです。
今の価値観で考えれば、どうしてそんな恐ろしいことをしたのだろうと思うわけですが、今の価値観と当時の価値観は異なるという冷厳なる事実が横たわります。
今の空気と当時の空気は異なります。
今の価値観で当時を考えることは極めて難しいことです。

言うまでもなく、私たちの存在は、お互いに生きていける形で生かされなければなりません。
あなたも生きていける、私も生きていける。
それがすべてです。
誰かの役に立ちたい、誰かのために尽くしたいという崇高な精神は、自分も生きることができて、相手も生きることができて、みんな全員が生きていくことができる、そういう形で発揮されなければなりません。
それは言うまでもないことです。

しかし、ここで気を付けなければならないのは、
私たちはいつでも当時のようになりうるということです。
将来において、戦前戦中のような空気になることは十分ありうることなのです。
再び、特攻が行われる可能性はありうるのです。

現代の価値観では当たり前のように考えられている『人間の尊厳』や『基本的人権』という概念は、とてもはかなくもろいものです。
それはいつでも危機に瀕しやすいものです。
将来において、人間の尊厳や基本的人権が否定される世の中になる可能性は十分にありうるのです。
そのような時代と空気で、再び特攻のようなことが行われる、特攻のために人が募集される、そして純然たる奉仕精神で志願する人が現れたり、あるいは時代の空気の同調圧力の中でそんな気になったりさせられたりして志願する人が現れるということが十分にありうるのです。

特攻という今の価値観で考えれば大変な悪夢のような出来事ではありますが、それは将来において同様のことが起きないともかぎらないのです。
そんな時代になっていったときに、私たちは今の価値観をそれでも持ち続けられるでしょうか。
周りの人間全員が「特攻は素晴らしいことだ」と言ったときに、果たして私たちはそれでも「特攻はいけないことだ」と言うことができるでしょうか。
今の価値観をそれでも持ち続けていく。
そして将来、時代の空気が変わっていったとしても、それでも「自分」を保持し続けられるか。
それが将来に特攻の再来を防ぎ、私たちが幸せに生きていける、自分もあなたもみんなも生きていける、そんな世の中あるいは地球世界を作る鍵になるものと思います。

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