つらいとき苦しいとき遠藤周作『沈黙』を読んでみよう

私が遠藤周作『沈黙』に出会ったのは大学1年生のときで、19歳のときでした。
そのときに大変に感動し、それ以来、私のベスト1愛読書になっています。
何度も何度も読み返した本です。
人生でもっとも読み返した本でもあると思います。

私は人生でつらいとき苦しいときに遠藤周作の『沈黙』を開いてきました。
どこを開いてもおもしろい。
どこを開いてもスッと物語の世界に入っていく。
そして気が付けば深々と読みふけってしまうのです。
そして、遠藤周作『沈黙』を求めるのは、決まってつらいとき苦しいときなのです。
つらいとき苦しいときに私の手は『沈黙』に伸びます。
そして『沈黙』の主人公、ロドリゴになりきり、物語の世界に耽溺します。

遠藤周作『沈黙』は2冊持っています。
人生で同じ書物を2冊買うのも珍しいかもしれません。
とにかく何度も読みふけってボロボロになってきたので、2冊目を購入しました。
その2冊目は、うつ病に苦しんでいて公務員を休職していた時代(34歳)に購入しました。
つらいとき苦しいとき、私は何度も『沈黙』を開いたのです。

人間がもっとも高貴なのは、苦しんでいるときです。
苦しんでいる人間の姿こそ、もっとも美しい人間の姿です。

ちなみに、私が宗教に興味を持ったのも、この『沈黙』に出会ったときでした。
キリスト教に興味をもちましたが、私が興味を持ったのは遠藤周作の描くキリスト教であり、
それは、およそ実際のキリスト教とはかけ離れているように思いました。
遠藤周作のイメージでキリスト教に入ろうとするとトラブルになるだろうと思いました。
さらに、私は根源的に疑問に思う性格でもあり、
そんな根源的な問いはまちがいなく既存の聖職者たちを怒らせるだろうと思いました。
宗教に帰依したいと思ったことはありましたが、
既存の宗教は私の救いにはならないように思えて、私は長く放浪の旅をしていました。
結果として、自分オリジナルの信仰を持つに至り、それが現在の『魂の戦友』となりました。

私の原点でもある遠藤周作『沈黙』をあらためて紹介しました。
ぜひ一緒に読んでいきましょう。

トロッコ問題を考える 犠牲者をひとりも出すことなく全員が助かるアイディアを私たちはひらめくことができるか?

今日はトロッコ問題について考えてみたいと思います。
先日、とある小中学校でトロッコ問題を考える授業が行われて、児童が不安感を抱いたということでニュースとなったことがありました。
トロッコ問題とは、倫理観や道徳心について考えるひとつの思考実験です。
どんな問題かというと、とある暴走するトロッコがあります。
その先には5人の作業員がいて、そのままでは5人は死亡します。
そのとき、自分は分岐点を操作することができ、もし分岐点を操作すれば違う道にトロッコを入れることができますが、しかしそこには1人の別の作業員がいて、その作業員が死ぬこととなります。
さあどちらを選びますか?というのがこのトロッコ問題の概要です。
ひとつの思考実験として有名になったこの問題ですが、最近では自動車運転の人工知能の問題としてリアルな問題になっているということでホットな話題となっています。

私はこの問題について、設問者の意図を感じるような気がして、いやな感じがしました。
つまり、分岐点を操作して1人が犠牲になるという選択肢へと誘導しているような気がしたのです。
5人が死ぬよりだったら1人が死ぬ方がいいという発想もあるかもしれませんが、そんな選択肢を選べと言われても気持ちが悪いこと限りありません。もちろん5人が死ぬのも気持ち悪いものです。どちらの選択肢も納得できる人はいないでしょう。
私はこの問題は悪問だと思います。

人生の問題を考えたとき、選択肢が二つしかないということはないはずです。
選択肢が二つしかないように見えて、おもいもよらなかった第三の選択肢が思いついたりするのが人間というものです。
人間の知恵とは深いものです。
誰もが思いつかなかった新しいひらめきによって全員が救われるということはあるものです。
人類はさまざまな困難に直面して、絶体絶命というときに、誰かが思いもよらないひらめきで解決法を思いついたりして、乗り越えてきたのが人類というものだったと思います。

ちなみに、私が思いついた解決法は、暴走トロッコが分岐点にさしかかったときに分岐点を操作してトロッコを脱線転覆させるというものでした。そうすれば犠牲者はゼロになるでしょう。
あとからネットで調べたときに、似たような解決法を考えた人はいらっしゃいました。
そもそも分岐点を中立にしておけばいいというふうに考えた人もいました。分岐点をどちらの道でもない中間にわざと設定すれば、トロッコは脱線するというものです。そんなふうにトロッコを脱線させれば5人の道にも1人の道にも入らずに全員が助かることができるということです。

こんなふうなジレンマ思考実験は数限りなくありますが、
もっとも重要なのは、犠牲者をゼロにするということだと考えます。
あくまで全員が助かる道を考えるのです。
そんなことできないよと思うかもしれませんが、
それを考えてこその本当のジレンマ思考実験ではないでしょうか。
私たちは考えることができます。
ひらめくことができます。
全員が助かる道を考える。
そんな人間こそ英雄というものであり、私たちは誰もがそんな英雄になることができるのです。

そうはいっても、ということはありうることだと思います。
究極の決断を下さなければならない場面はありうることです。
そんなとき、それは各人の良心の問題であって、
もはや正解はありません。
そんなとき、とりうるすべての選択肢が正解となるでしょう。
誰もその決断を責めることはできないと思います。

自動車運転の人工知能の問題として考えたとき、このトロッコ問題は現実となります。
事故に遭ったとき、どのような解決法を人工知能に判断させるか。
私はそんな緊急時は人間が運転操作するべきだと思います。
言うまでもなく、そんな緊急時に正解はありません。
正解を求めて人工知能をプログラムすることは不可能でしょう。
人間が操作して、二つの選択肢のどちらでもない第三の選択肢をひらめいて解決する他はないと考えます。
もし人工知能がそこまでできるようになったとするならば話は別ですが、
最終的な決断は生身の人間の判断にゆだねられるのではないでしょうか。

誰かが犠牲になる判断というのは、どんなに大多数が助かったとしても後味が悪いものです。
生涯そのことを心のトゲとして生きていかねばならないでしょう。
それはたとえゲームや思考実験であったとしても、やはり後味が悪いものです。
本当の思考実験とは、全員が助かる道を考えるようなものだと思います。
全員が助かる道を考えて全員を助ける。
それこそ英雄であり、私たちは生涯そのことを誇りに思って生きていくことができるでしょう。
そんな判断ができるように、日頃から心身を養っていきたいものです。
そのためにジレンマ思考実験を考えることができればよいのかなと思います。

やさしさは余裕から生まれる 無駄が余裕を作り、やさしさを生む

私たちは誰でもやさしい人が好きだと思うのですが、では、私たちはどうやったらやさしくなれるのでしょうか。
やさしくなることは誰でもできます。
やさしさは余裕から生まれるからです。
余裕を持つことができれば、どんな人でもやさしくなることができるでしょう。
逆にいえば、余裕がない人はやさしくはなれません。

余裕があるとは暇であるということですが、
誰だって暇でぼーっとしているよりだったら、誰かの役に立っていた方がうれしいと思うでしょう。
誰だって「助けて」とか「力を貸して」と頼られたら、うれしいと思うのです。
暇なときは特に。
反対に、忙しいときに頼られたら、誰だってうざいと感じると思うのです。
そんなこと自分でなんとかしてよ、と誰だって思うし言うと思うのです。
余裕がないときに他人にかまっていることはできないし、他人に頼られたら迷惑千万なのはやむをえないことです。

そう考えたときに、現代日本社会とは本当に余裕がない社会だと思います。
現代日本社会とはやさしくない社会です。
それは私たちがまったく余裕がないからです。
現代日本社会は効率主義で、とかく人件費の削減とか人員削減とか、無駄を省き、効率化を推し進めてきました。
結果としてまったく余裕がない社会となってしまい、
人はいつも何かに追われて、やさしくなる余地がなくなってしまいました。
そんな中で、例えば自殺の問題とか、不登校やひきこもりやいじめといった問題が現れてきたように思います。

私たちは余裕を持つべきであり、それは無駄を認めるということでもあります。
余裕は見方を変えれば無駄でもあるかもしれません。しかし、ある程度の無駄は見方を変えれば余裕でもあるのです。
そんな余裕が私たちをやさしくさせ、私たちを豊かなものにするのです。

行き過ぎた効率主義と管理主義は、余裕を失わせました。
そして、私たちはまったくやさしくなれなくなりました。
日本人は「迷惑をかける」ということにものすごく敏感であり、神経質です。
それは余裕のなさの結果でもあります。
お互いに余裕がないからこそ、迷惑をかけたりかけられたりということに神経質になるのです。
そして、迷惑をかけるということに神経質になった結果として、私たちはますます孤独になっていったようにも感じられます。

余裕は作りだすものでもありますが、
余裕を作りだして、人にやさしくありたいものですね。
また、社会全体で余裕を作りだして、
お互いにやさしくなれる社会にしていきたいものですね。

一緒に努力していきましょう。
そして一緒にやさしい余裕を作っていきましょう。

努力することは無駄なのか 失敗した努力の価値とは? 釈迦の努力の失敗例に学ぶ

努力は無駄なのでしょうか。
私たちは往々にして「努力しても無駄である」と言いがちです。
そして、努力することを諦めてしまいがちですが、
果たして努力とは無駄なのでしょうか。

ここで思い出すのは釈迦の例です。
仏教の開祖である釈迦もまた努力が実らず、失敗した経験があります。

釈迦は悟りを求めて、苦行生活を始めます。
5人の仲間たちも集い、断食をはじめとした苦行の修行に打ち込みます。
そして6年間苦行修行をしますが、悟りを開くことはできません。
ついに感極まった釈迦は、村娘スジャータから乳粥をもらい、こんな苦行修行では悟りは開くことはできないと決断し、苦行修行を断念します。
そんな釈迦を見た5人の仲間たちは、「あいつは堕落した」と釈迦を見限り、釈迦の下を去っていきます。
釈迦の苦行修行は大失敗に終わります。
当初釈迦は苦行修行で悟りに至ることができると思ったと思いますが、6年の後についに悟りに至ることはできず、努力は実らなかったことになります。これはまさに大失敗だったでしょう。

しかし、釈迦はその後、瞑想生活に入り、さまざまな誘惑に打ち勝ち、ついに菩提樹の下で悟りに至ります。
釈迦は最終的にその目的であった悟りを開くことに成功します。
この悟りに至るまでには、6年間の苦行修行とその失敗がありました。
そんな失敗があったからこそ、釈迦を成長させて、真の悟りへと導いたと考えるのは不遜でしょうか。

失敗は人を成長させます。
確かに努力は実るとはかぎりません。
現実問題として、努力は実らない場合が多いかもしれません。
その度に私たちは絶望にうちひしがれるわけですが、しかし、努力は確実に私たちを成長させます。
努力は実りを結ばないかもしれませんが、しかし私たちは成長します。
そんな成長が、いつかは成功へと導いていくものです。
仮に成功しなかったとしても、私たちは確実に成長し、そんな成長は私たちの喜びになり、自信となります。
そして、これからの人生をいきいきと生きていくことができるでしょう。

人生に近道はありません。

確かに釈迦の苦行修行は失敗しました。
では、始めから苦行生活などしなければよかったのかと言うと、難しいところです。
おそらくその苦行なくして始めから菩提樹の下で瞑想生活をしたとしても、悟りは難しかったかもしれません。
もっとも、釈迦は苦行生活では悟りは開けないと理解したわけで、私たちが同じように苦行生活をしようとすれば釈迦は止めるかもしれません。
いずれにせよ、人生に近道はないのです。
努力は失敗するかもしれません。
しかし、その失敗の果てに未来があることもまた事実なのです。

努力は努力そのものに価値がある。
努力は努力することに意味があるのです。

一緒に努力していきましょう。
そして自らの成長を喜び、次の努力に打ち込んでいきましょう。
いつか必ず未来は見えてきます。

神仏を信じることは間違っていない 自らの信仰を告白する

生涯、寿命尽きるまで人生導師として生きるという決意を宣言した日によせて、自らの信仰について語りたいと思います。
私は今、宗教家と名乗っているわけですが、そもそもなぜ宗教家と名乗ろうと思ったのか、その背景について語りたいと思います。

現代日本社会では、宗教は悪と思われています。
宗教を信じることは否定されているのが現実です。
そうなってしまったのはやむをえないと思います。
例えばある宗教団体が毒ガスを使用して多数の市民を殺害した事件もありました。
霊感商法や強引な勧誘など、少なくない宗教団体が少なくないトラブルを起こし、そのために、現代日本人はすっかり宗教に警戒感を持つようになり、強い忌避感を抱くようになりました。
そうなった事情も理解できるのですが、それは宗教そのものが悪であるというように行き過ぎてしまった感があるように思います。言うまでもなく、人々の信仰心を悪用している一部の人間が悪なのであって、宗教や信仰そのものが悪なのではありません

そもそも、私たちは神を信じています。
もちろん無神論者の方もいらっしゃるでしょうし、それは否定しませんが、現代日本人で本当の無神論者の方は少ないと思います。大抵の日本人は、自分は無神論者と言いながらも、神を信じています。
例えば、元日には初詣に行くと思いますが、そこで「宝くじ当たれ」とか祈ってはいないでしょうか?
たいていの人は初詣に行くのではないかと思いますが、そこで学校に合格させてくださいとか、病気が治りますようにとか、交通事故に遭いませんようにとか、祈ると思います。
その時点ですでに神を信じているわけです。

もっとも神や仏を信じるのは、自分や親しい人に死が迫っているときです。
普段は神や仏を感じることはまずないかもしれません。
しかし、死が迫っているとき、人は神や仏の存在を感じます。
真剣に神に祈りたいと思うのです。仏にすがりたいと思うのです。
生きたい、生きさせてください、と人は願うのです。
自分や愛する人に死が迫っていても、それでも神や仏を信じることなく、従容とその死を受け容れられるとしたら、本当の無神論者なのでしょうし、それはそれで尊敬されることだと思います。そのような生き方を否定しませんが、たいていの人は、死の前には無力であり、死が迫っているとき、その死を回避したいと願い、また回避できないとしたときに、死後は自分はどうなるのだろうと真剣に考えるものです。
それが人間の偽らざる真実です。

当は神仏を信じているのに、信じていると言えないのが現代日本社会の真実でもあります。
人々は同調圧力に負けて、自分は無神論者であると言っているのにすぎないのが現実です。
そして、本当は信じているのに信じていると言えないことが、一つの苦しみを生んでいることもまた事実だと思います。
素直になればいいじゃないかと私は思うのです。
信じているのであれば、信じていると素直に言えばいい。
けれども、そうはできない現代日本社会の中で、信仰について語ることができず考えることもできず、すっかり疲弊して苦しんでいるのが偽らざる私たち現代日本人の姿だと私は思うのです。

私は現代日本社会の価値観の狭さをいつも批判していますが、もっとも狭いと感じるのがこの宗教についてです。
この価値観の狭さ、宗教を認めない価値観の硬直さと閉塞感こそが、私たちの苦しみの根源であると思いました。そんな閉塞感を打破し、真の心の自由をつかみたいと思ったのです。
そのために、私は宗教家を名乗ろうと思いました。
宗教家と名乗ることは、現代日本社会では極めて危険なことであると思いましたが、現代日本社会の価値観を変え、私たちが真の心の自由を得て幸せに至るためには、宗教家になるしかないと思ったのです。

もし神を信じているのであれば、素直に信じていると言えばいいのです。
それだけで、一つの苦しみから解放されます。
もし私たちがそれぞれに信仰を語ることができれば、
私たちはその信仰についてお互いに意見を交換することができます。
そんな議論を通して、私たちは信仰について学び、思想を深めることができます。
それはひとつの人生を生きる道しるべとなるでしょう。

何より、神仏を信じ、祈ることで、私たちは精神を統一し、心やすらかになることができるでしょう。
そんなやすらかな落ち着いた心で人生に向き合うことができたならば、
きっといろいろな問題が解決できるのではないかと思うのです。
仕事にせよ勉強にせよ、落ち着いた心で向き合ったときに集中して取り組むことができ、いろいろな成果を生むことができるのではないかと思うのです。
もちろん何かの利益を得るために祈ることはよこしまなことかもしれませんが、そうやって生きているのが人間の偽らざる実存であることもまた事実だろうと思います。

本当の自分を肯定する。それが生きることの第一歩だと思うのです。

私は子どもの頃から神の存在を信じてきました。
私は一度も特別な宗教団体に入ったことはなく、その信じる神は何教でもありません。
何教でもないのですが、とにかく私は神を信じてきました。
その神がいったい何なのか、正直に言えばよく分からないのが現実かもしれません。
(私が語る神の世界は、推論を重ねているに過ぎないのかもしれません)
しかしはっきり言えることは、私は神を信じているということです。
私には信仰がある。神を信じる気持ちがある。
それははっきりと言うことができます。
それが私の信仰であり、私の宗教の出発点です。
そしてそれが「魂の戦友」の原点でもあります。

神はいつも私たちを見守っている。
私はそう思ってきました。私はいつも神に祈っていました。
それだけです。
それが私の真実です。

あなたはあなたの心の中に現れる神を信じればいい。
あなたの心に現れた神と私の心に現れる神は同一です。
もし神を信じることについて一人では心細いと思うのであれば、一緒に神を信じていきましょう。