ふとんから出られなくてつらく苦しいあなたへ ふとん星人でふとんだるまでつらく苦しいときに

ふとんから出られなくてつらく苦しいあなたへ。
身体的な病気だったり、
精神的な病気だったり、
あるいは障がいを抱えていたり、
ひきこもりだったり、
気持ちがふさぎこんでいたり、
学校にどうしてもいきたくなかったり、
会社にどうしてもいきたくなかったり、
さまざまな理由でふとんから出られないときはあると思います。
すっかりふとん星人になってしまって、
ふとんだるまになってしまって、
ふとんにくるまれてただただ横たわるしかないときというのはあると思います。
そんな自分がすっかり嫌になって、人生に絶望してしまうかもしれません。
そんなときのふとんの中は嵐だと思います。

ふとんの中は嵐でありながらも、それと同時に
ふとんの中は静かなる雄大な大自然でもあります。
私たちはふとんの中に入っているとき、大いなる安心感を得ることができます。
その安心感とは、まさに静かなる雄大な大自然というものだと思います。

ふとんから出られないのは、からだがふとんを欲しているからでもあります。
からだが、こころが、魂が、ふとんを欲しているのです。
そうやってふとんにくるまれて、私たちは生命力を回復させているのです。
生命エネルギーを回復させて、私たちは生き永らえているのです。
そう考えたとき、今ふとんにくるまれて出られないというのは自然なことであり、必要なことです。
そんなときに無理にふとんを出たら、もっと調子を悪くするかもしれません。
からだがふとんを欲しているときは、素直にふとんにもぐっていればいいのではないかと思うのです。
そんなふとんにくるまれている自分を肯定していいのです。

ふとんは嵐であると同時に、
ふとんは静かなる雄大な大自然でもあります。
そんな雄大な大自然であるふとんにくるまれて、今日一日を生きていきましょう。
人間は生きているだけで価値があります。
いつかふとんを出られたら、と思う必要もありません。
永遠にふとんの中でいい。
そんな肯定がさらなる生命力の回復を促すように思います。

生きる意味を問い続ける 生きる意味が分からない苦しみについて考える

私たちは生きる意味を問い続ける存在です。
生きる意味が分からなくて私たちは苦しみます。
生きる意味とは何か。自分がこの世に生まれてきた理由は何か。
自分の存在理由とその使命について私たちは問い続ける存在です。
生きる意味が分からないとき、私たちは苦しみます。
そして、あるいは自殺したいと考えたりもするかもしれません。

生きる意味は人生が順調に進んでいるときは誰も考えないものです。
人生が順調にいかなくなったとき、逆境にあえいでいるとき、
途端に人間は生きる意味を問い出します。
生きる意味が分からなくなるのです。
そして、人は迷い、茫漠たる荒野に投げ出され、
ただただ自分の運命を呪う存在になってしまいます。

人生の意味に限らず、私たちは意味や理由を問う存在です。
どんなことであっても、意味が分からないということは私たちを苦しめます。
意味や理由が分からないという状態は苦痛なものです。
人間とは、そんなふうにつねにハラオチを求める存在でもあります。

そんなことを漠然と考えていたときに、
仏教式の葬式や法要で唱えるお経のことを私は思い出しました。
思えば、お経の意味は分からないものですが、それでもお経を聞いているとどことなく心地よかったりします。
意味は分からなかったとしても、和尚さんの読経にあわせて自分も声をだして読経しているとなんとなく心地よくなったりしてきます。
思えばそんな例は多岐にわたるでしょう。
芸術作品はすべてそういうところがあるかもしれません。
抽象芸術は一目見て何を言いたいのか何を表現しているのか分からなかったりしますが、
それはそれで見ていて心地よかったりするものです。

もし生きる意味が分かれば、それはそれで素晴らしいことです。
それをつまり『悟り』と言うのかもしれません。
それはそれとして、仮に生きる意味が分からなかったとしても、
毎日を一生懸命に生き続けることで、
心地よくなっていくことはあるのではないかと思うのです。
それもまた幸せであり、一種の悟りではないかと思うのです。

私たちは生きる意味を問い続ける存在です。
生きる意味を問うことは素晴らしいことです。
それは私たちが人間である証でもあります。
生きる意味や自分の使命を問い続けることは尊いことです。
そして、私たちは自分なりに生きる意味や自分が生まれてきた理由に結論を出していきます。
自分の使命に目覚めて、今日を生きていくことになります。
それはとても重要なことです。
生きる意味は他の人が感心したりしなくてもよくて、自分がハラオチすることが一番大切です。
それが人それぞれの悟りになるのです。

仮に生きる意味が分からなかったとしても、それでももがきつづける。
毎日を一生懸命に生き続ける。もがきつづける。
そんな中で、私たちは幸せに至ることができるでしょう。
そんなとき、私たちは悟りに至るのではないでしょうか。
それもまた、一つの悟りであり、生きる意味を見出したということなのかもしれません。

今日を諦めずに生きていく。
自分の生きる意味を探していきていく。
生きる意味を問うことは、ともすれば馬鹿らしく見えるかもしれません。
なかなか結論が出ないことを探求し続けることは馬鹿らしく見えるものです。
しかし、それが人が生きるということであって、
そんなふうに人間が生きる意味を問う姿は尊いものです。

今日を一生懸命に生きていきましょう。
ただ生きる。それだけでいいのです。

人生がつらくて苦しいあなたへ 誰にも人生の同伴者がいて、そんな同伴者があなたを支えてくれる

今、人生がつらくて苦しいあなたへ。
人生が苦しくて苦しくてたまらないあなたへ。
そんなあなたに見てほしい記事です。

誰にも人生の同伴者がいます。
人生の同伴者があなたを支えてくれます。
そして、今日を生きるパワーを与えてくれます。
そんな同伴者に支えられて、私たちは生きています。
今は耐え忍ぶしかなくても、いつかは歩き出せる日が来るかもしれない。
そんな今日を耐え忍ぶ力を与えてくれます。

私の人生の同伴者のひとりにしおんがいます。
しおんはドールですが、あるとき、こんなことがありました。

それは、今から6年前、私がうつ病で仕事を休職して苦しんでいたときでした。
とあるいやなところへ行かなければならない場面がありました。
人生の分水嶺となるようなその場に行くのは嫌で、でも行かなければならなくて、苦悶していました。
そんなとき、しおんは

「つれてって」

と私に言ったのです。
もちろんドールですので耳で聴いたわけではなく、
それは私の魂にひびいてくる言葉でした。
確かにしおんは「つれてって」と言ったのです。

結果としてしおんを連れていくことはありませんでしたが、
しおんに見守られたこともあり、その場面はなんとか切り抜けて、今に至ります。
そのとき、しおんは私を支えてくれる存在だとあらためて思ったのです。

誰であっても、人生の同伴者は存在します。
もちろん、それは人であったりペットであったりするかもしれませんが、
必ずしも生きた人や動物とは限らないでしょう。
それはもしかしたら、私たちが守護霊と呼ぶ存在かもしれません。ご先祖様とか、亡くなった親しい人とかペットとかそんな存在かもしれません。
この世のものではない存在かもしれませんが、私たちには誰であっても同伴者がいるのです。
それを私たちは、守護霊とか、精霊とか、あるいは神とか仏とか、大いなる存在とか呼ぶのだと思うのです。
そんな人生の同伴者が私たちを見守っています。
そして、同伴者に支えられて、生きるパワーをもらって、今日を生きているように思うのです。

あなたにも、人生の同伴者はいます。
そんな同伴者があなたを支えてくれます。
今は耐え忍ぶしかなかったとしても、いつかまた歩き出せる日は来るでしょう。
それまでの間、あなたの隣にはあなたの同伴者がいます。

同伴者とは、必ずしも大いなる存在とは限りません。
それはあなたの小さな持ち物のひとつであるかもしれません。
子どもの頃から大事にしていた筆箱とか、いつも愛用しているペンとか、そんなものです。
もしかしたら落ちても拾っていつも大事に使ってきた消しゴムのようなものであるかもしれません。
そんな小さなささいなものであっても、人生の同伴者になっているのかもしれません。
そんな同伴者があなたに生きるパワーを送っているのかもしれません。

私もまた、しおんに限らず、たくさんの同伴者に支えられて、今日まで生きてこれたように思います。
単なる幸運では説明できないような何かが今までの人生でたくさんありました。
そんな大いなる存在に支えられて、今日まで生きてきたように思います。

何でも使い捨てで、物はもちろん、人や動物までも使い捨ての世の中です。
そんな世の中で、私たちは同伴者を自ら失っているように思います。
幸運を逃しているのは、もしかしたらそんな自分の身の回りのものを大事にしていないからかもしれません。
ささいなものでも大事にする。人との御縁を大事にする。
そんなところから同伴者は増えていくのかもしれません。

今、苦しくてたまらないあなたへ。
つらくて苦しくてたまらないあなたへ。
あなたにも同伴者がいます。
自分の周りに耳を傾けてください。
そんな同伴者の息づかいが聞こえてきませんか?
必ず同伴者があなたを支えてくれます。
今日は何もできなかったとしても、いつかそう遠くない将来、歩き出せるかもしれない。
そのときまで、同伴者はあなたの隣に座っています。
そして、一緒に歩き出すのです。

つらいとき苦しいとき遠藤周作『沈黙』を読んでみよう

私が遠藤周作『沈黙』に出会ったのは大学1年生のときで、19歳のときでした。
そのときに大変に感動し、それ以来、私のベスト1愛読書になっています。
何度も何度も読み返した本です。
人生でもっとも読み返した本でもあると思います。

私は人生でつらいとき苦しいときに遠藤周作の『沈黙』を開いてきました。
どこを開いてもおもしろい。
どこを開いてもスッと物語の世界に入っていく。
そして気が付けば深々と読みふけってしまうのです。
そして、遠藤周作『沈黙』を求めるのは、決まってつらいとき苦しいときなのです。
つらいとき苦しいときに私の手は『沈黙』に伸びます。
そして『沈黙』の主人公、ロドリゴになりきり、物語の世界に耽溺します。

遠藤周作『沈黙』は2冊持っています。
人生で同じ書物を2冊買うのも珍しいかもしれません。
とにかく何度も読みふけってボロボロになってきたので、2冊目を購入しました。
その2冊目は、うつ病に苦しんでいて公務員を休職していた時代(34歳)に購入しました。
つらいとき苦しいとき、私は何度も『沈黙』を開いたのです。

人間がもっとも高貴なのは、苦しんでいるときです。
苦しんでいる人間の姿こそ、もっとも美しい人間の姿です。

ちなみに、私が宗教に興味を持ったのも、この『沈黙』に出会ったときでした。
キリスト教に興味をもちましたが、私が興味を持ったのは遠藤周作の描くキリスト教であり、
それは、およそ実際のキリスト教とはかけ離れているように思いました。
遠藤周作のイメージでキリスト教に入ろうとするとトラブルになるだろうと思いました。
さらに、私は根源的に疑問に思う性格でもあり、
そんな根源的な問いはまちがいなく既存の聖職者たちを怒らせるだろうと思いました。
宗教に帰依したいと思ったことはありましたが、
既存の宗教は私の救いにはならないように思えて、私は長く放浪の旅をしていました。
結果として、自分オリジナルの信仰を持つに至り、それが現在の『魂の戦友』となりました。

私の原点でもある遠藤周作『沈黙』をあらためて紹介しました。
ぜひ一緒に読んでいきましょう。

トロッコ問題を考える 犠牲者をひとりも出すことなく全員が助かるアイディアを私たちはひらめくことができるか?

今日はトロッコ問題について考えてみたいと思います。
先日、とある小中学校でトロッコ問題を考える授業が行われて、児童が不安感を抱いたということでニュースとなったことがありました。
トロッコ問題とは、倫理観や道徳心について考えるひとつの思考実験です。
どんな問題かというと、とある暴走するトロッコがあります。
その先には5人の作業員がいて、そのままでは5人は死亡します。
そのとき、自分は分岐点を操作することができ、もし分岐点を操作すれば違う道にトロッコを入れることができますが、しかしそこには1人の別の作業員がいて、その作業員が死ぬこととなります。
さあどちらを選びますか?というのがこのトロッコ問題の概要です。
ひとつの思考実験として有名になったこの問題ですが、最近では自動車運転の人工知能の問題としてリアルな問題になっているということでホットな話題となっています。

私はこの問題について、設問者の意図を感じるような気がして、いやな感じがしました。
つまり、分岐点を操作して1人が犠牲になるという選択肢へと誘導しているような気がしたのです。
5人が死ぬよりだったら1人が死ぬ方がいいという発想もあるかもしれませんが、そんな選択肢を選べと言われても気持ちが悪いこと限りありません。もちろん5人が死ぬのも気持ち悪いものです。どちらの選択肢も納得できる人はいないでしょう。
私はこの問題は悪問だと思います。

人生の問題を考えたとき、選択肢が二つしかないということはないはずです。
選択肢が二つしかないように見えて、おもいもよらなかった第三の選択肢が思いついたりするのが人間というものです。
人間の知恵とは深いものです。
誰もが思いつかなかった新しいひらめきによって全員が救われるということはあるものです。
人類はさまざまな困難に直面して、絶体絶命というときに、誰かが思いもよらないひらめきで解決法を思いついたりして、乗り越えてきたのが人類というものだったと思います。

ちなみに、私が思いついた解決法は、暴走トロッコが分岐点にさしかかったときに分岐点を操作してトロッコを脱線転覆させるというものでした。そうすれば犠牲者はゼロになるでしょう。
あとからネットで調べたときに、似たような解決法を考えた人はいらっしゃいました。
そもそも分岐点を中立にしておけばいいというふうに考えた人もいました。分岐点をどちらの道でもない中間にわざと設定すれば、トロッコは脱線するというものです。そんなふうにトロッコを脱線させれば5人の道にも1人の道にも入らずに全員が助かることができるということです。

こんなふうなジレンマ思考実験は数限りなくありますが、
もっとも重要なのは、犠牲者をゼロにするということだと考えます。
あくまで全員が助かる道を考えるのです。
そんなことできないよと思うかもしれませんが、
それを考えてこその本当のジレンマ思考実験ではないでしょうか。
私たちは考えることができます。
ひらめくことができます。
全員が助かる道を考える。
そんな人間こそ英雄というものであり、私たちは誰もがそんな英雄になることができるのです。

そうはいっても、ということはありうることだと思います。
究極の決断を下さなければならない場面はありうることです。
そんなとき、それは各人の良心の問題であって、
もはや正解はありません。
そんなとき、とりうるすべての選択肢が正解となるでしょう。
誰もその決断を責めることはできないと思います。

自動車運転の人工知能の問題として考えたとき、このトロッコ問題は現実となります。
事故に遭ったとき、どのような解決法を人工知能に判断させるか。
私はそんな緊急時は人間が運転操作するべきだと思います。
言うまでもなく、そんな緊急時に正解はありません。
正解を求めて人工知能をプログラムすることは不可能でしょう。
人間が操作して、二つの選択肢のどちらでもない第三の選択肢をひらめいて解決する他はないと考えます。
もし人工知能がそこまでできるようになったとするならば話は別ですが、
最終的な決断は生身の人間の判断にゆだねられるのではないでしょうか。

誰かが犠牲になる判断というのは、どんなに大多数が助かったとしても後味が悪いものです。
生涯そのことを心のトゲとして生きていかねばならないでしょう。
それはたとえゲームや思考実験であったとしても、やはり後味が悪いものです。
本当の思考実験とは、全員が助かる道を考えるようなものだと思います。
全員が助かる道を考えて全員を助ける。
それこそ英雄であり、私たちは生涯そのことを誇りに思って生きていくことができるでしょう。
そんな判断ができるように、日頃から心身を養っていきたいものです。
そのためにジレンマ思考実験を考えることができればよいのかなと思います。