自分のために我慢する

人生、我慢することもまた必要であるが、
そんな我慢は自分のために行いたいものである。

人生は待つことが大事であると考えているが、
自分のまいた種が実を結ぶまでには時間がかかるのが現実である。
どうしようもない断絶した状況の中で、
私たちは絶望にうちひしがれているのが現実かもしれないが、
明日には何が起こるか分からないのが人生でもある。
それは完全に偶然のラッキーというものでしかないかもしれないが、
何か新しい展開が起こることがあることもまた人生である。
もちろん、そんなラッキーは起こらないのが多数現実であるかもしれないが、
私たちは新しい展開を待ち、今日を我慢して生きることもまた必要であるかもしれない。

私たちは一般的に
我慢、忍耐、努力
といったものを美徳とする。
さて、ここで考えたいのは、いったい何のために我慢するのかということである。

私が恐れるのは、そんな美徳が、あるいは不平等な関係や、特定の支配関係を肯定することにならないかということである。
奴隷的な不平等な関係があったとして、それを「我慢するべきである」と言われてしまったら、
私たちの人生に尊厳は存在しない。
人間とはまことにせつないもので、
数々の不平等な関係や支配関係を生むことがある。
それを無条件に我慢して忍耐して、今の人生の中で努力せよというのはやはりおかしいと言わざるをえない。

私たちは自由意思で自分の人生の道を選んだときに、満ち満ちて人生を歩むことができる。
自分で選んだ人生を歩む中で、そこで起こる苦しみを我慢したときに、
我慢は意味を持ち光り輝くと考えている。
とはいっても、なかなか自由意思を持つことは大変である。
人間は誰かに依存していた方が楽という見方もあるのかもしれない。
自由意思を守り抜くというだけでも、私たちは大変な努力を必要とするだろう。

しかし、人生とは人に言われて生きるものではないことは確かである。
自分のために生きる。
自分のために生きる中で、誰かのために生きていく。
そんなときに生じる困難や苦しみこそ、私たちは我慢して忍耐するべきである。
そんな努力の過程に幸せは生まれるだろう。

◆今日の写真
朝方は雲が多めだったが、次第に雲は晴れて今は青空が広がっている。

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自殺しないで生きてゆく

自殺しないで生きてゆけたら。
私たちの願いはたった一つ、それは「生きたい」ということ。
人間に限らず、生命とは「生きたい」と願う存在です。
そんな誰もが抱いているであろう生きたいという願いをそのままに実現することができたら。
私たちが抱く想い、願い、祈り。
そんな原始的な思いや気持ちをそのままに大事にしていきたいと思います。

今日は「自殺しないで生きてゆく」というテーマで語りました。
今自殺したい死にたいと思っている方も、
そんなことは今まで思ったことがない方も、
いろいろな方にぜひ関心を持っていただけたらと思います。
自殺自死という問題に多くの人に関心を持っていただき、
一緒に生きるということについて考えていけたらと思います。

続きはぜひ動画をご覧になってください。

今日の秋田は午後晴れて、久々に海岸の砂浜に行きました。
砂浜で自分の今の気持ちや思いを語りましたので、
そんな動画もあわせて紹介します。

願いを大事にする

平成の時代は「変わらない毎日」という閉塞感に人は苦しんでいたかもしれない。
毎日毎日同じことのくりかえし、同じ生活のくりかえし。
永遠に続くかに思われる同じことのくりかえしに閉塞感を感じて、人は苦しんでいたのかもしれない。
しかし、そんな思いも令和に入って、コロナを迎えて、変わってきたように感じる。
今までの日常は変わっていく。これからの日常はどうなるかわからない。
昭和時代もまた今までの日常は変わっていくと人々は思っていたが、
人々は生活がより良くなると信じていた。
科学文明が進歩して、未来はよりすばらしく、より豊かになると信じていた。
プラスやポシティブへの変化を人々は信じ、だからこそその日その日を生きられていたわけだが、
今はプラスやポシティブへの変化を期待する材料がなかなか見当たらないのが現実である。
コロナはいったいいつまで続くのか。
その間の私たちの生活はどうなるのか、
将来的にコロナが落ち着いたとして、そこからの私たちの生活はどうなるのか。
マイナスやネガティブな方向への変化しか見えないような気がするのは
私たちの共通の思いではないだろうか。

そんな今だからこそ、希望を大切にしたいと思う。
希望の原動力は「願い」である。
「祈り」と言ってもいい。
私たちは願う。
願いは祈りとなる。
私たちはよく日常生活で「祈ります」という言葉を社交辞令的に使ったりする。
どうしようもないときには祈るしかないのが人間が生きるという現実であり実像であるのかもしれない。
それを踏まえた上で、
「願い」を大事にしたいと思う。
願いを持ち続けることが希望を生み、今日を生きていくエネルギーになる。

3月に全国一斉休校が行われて、同時にいろいろなイベントが自粛となっていった。
当初は3月で終わるのかなと思いきや、4月5月にコロナ第1波の山が来て、
それから沈静化して、このまま落ち着いていけばとまさに祈っていたところで、
コロナ第2波が来た。
ゴールデンウィークは緊急事態宣言中となったが、
ゴールデンウィークは観光業をはじめ多くの産業で書き入れ時だったはずで、
そのダメージはたいへん大きかっただろうと想像する。
これから梅雨でもあり、避難所などのコロナ対策はどうなるだろうと心配していたが、
やはり梅雨が訪れて、熊本県をはじめとして甚大な水害をもたらしている。
今もまだ梅雨は続いている。
梅雨が明ければ猛暑であるが、熱中症とコロナ対策という大変な時期を迎えていくことが想像される。
秋になれば台風の季節であり、去年は千葉や福島に甚大な被害をもたらしたが、
台風とコロナ対策という難しいかじ取りを迫られることもまた想像される。

コロナそして豪雨と苦しみの渦のなかにいる私たち。
将来に明るい希望を感じられる材料が何もない今であればこそ、
願いを大事にしたいと思う。
もちろん、このような重大な困難の中で願いを維持することは大変なことである。
こころが折れそうになるのかもしれない。
祈り。
未来への祈り。
生きてゆける未来への祈り。
願いを祈ることを大事にしたいと思う。

◆今日の写真
今日は曇り空がひろがっている。

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毎日の人生を生きることが一番の出家であり修行

宗教には出家という概念がある。
例えば仏教では僧侶になることを出家と表現したりする。
他の宗教で聖職者になることを出家とは言わないかもしれないが、
仏教であれ神道であれキリスト教であれ、その道に入ろうとすることは出家と同様のインパクトある出来事になるのかもしれない。
また同じように修行という概念もある。
出家して特別な世界に入って修行という特別な何かに打ち込むことによって
人生は変わるのかもしれない、私たちはもっと良い方向に進むのかもしれない
と私たちは時として考えたりする。

ここで私が思うのは、私たちの普段の人生を生きることが一番の修行であり出家なのではないかということである。
生きるということは、楽しいことばかりではないことは事実であり、
苦しいことも多いのが現実である。
人生が順風満帆ですべてがうまく好転しているときに誰も出家などと考えることはないだろう。
しかし、そんな順風満帆な人生を維持することもまた非常に難しいことで、
私たちはときとして人生が暗転し、地獄の底を生きているような状態に陥ることがあることも確かだろう。
今苦しくなかったとしても、このような先が見えない現代日本あるいは現代世界であれば、
いつ襲ってくるか分からない不幸や災難にすっかり不安になって、
今はまだまだ豊かな暮らしであったとしても、まったくそんな豊かな暮らしを幸せに感じることができないで生きているのもまた人間の実像であるかもしれない。

そんな不幸に突き落とされたり、あるいは不安になったりするときに、
人間は例えば出家とかにあこがれたりするのかもしれない。
そして宗教的な修行にあこがれたりするのかもしれない。

しかし、どうであろうか。
仮に出家して宗教的な修行に打ち込んだとして、
例えば大金持ちになったりするわけでもないだろうし、
モテモテになって美談美女と結婚できたりするわけでもないだろう。
それは不幸のどん底にいる人の苦しみを埋めるものになるのだろうか。
お金のない人はお金を求め、
病気の人は病気が治ることを求め、
人間関係にもめる人は誰からも好かれることを求めるだろう。
そのような願望の直接的な解決とは異なる世界であることは留意する必要があるだろう。

そんなことも考えたときに、
やはり私たちは今の人生に打ち込むことが一番の修行であり、出家なのではないだろうか。
毎日の人生、日常生活に打ち込む。
朝起きて、掃除して、食事の支度をして、朝食を食べて、学校に行ったり仕事に行ったり家事をしたり、
そんな当たり前の日常に打ち込むことが、一番の修行なのではないだろうか。
そして私たちはあくまで自分の意思で自分の生活を選び、自分の意思で努力を続ける。
誰からも求められたわけではない自分の意思で、
自分の努力の選択をして、
自分で選んだ苦しみを自分で引き受けて努力する。
そうやって日常に挑戦し続ける中で私たちは成長する。
そんな日常の挑戦し続ける毎日にこそ充実感があり、それが幸せでもあるだろう。

人生は手段ではなく目的である。
幸せになるために生きるのではなく、
生きた結果として幸せになればいい。
どこで生きたとしても私たちは修行することができるだろう。

◆今日の写真
薄い雲が広がっている。
天候は良いが、風が強めである。

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来世ではなく現世で救われる

やはり来世ではなくて現世で救われたいと願うのが人間の本音ではないだろうか。
しかし、あまりにもつらく苦しく悩みがまったく解決できないと思われる状況の中で、
来世で救われたいと願ってきたのもまた人間の偽らざる本音でもあっただろう。

来世で救われるのか現世で救われるのかというのは、
古今東西、人類は長らく悩んできたことであり、
そう悩むからこそ多くの宗教家が現れ、多くの宗教が誕生していっただろう。
来世とは、いわゆる死後の世界のことであり、
神の世界であったり、あるいは輪廻転生として来る次の人間としてのうまれかわりであるのかもしれない。
うまれかわるとは日本人にとってはありふれた概念かもしれないが、
もともとは古代インドで考えられてきた概念であり、それが仏教にとりこまれて仏教に乗って日本にまで伝わってきた。
お盆や彼岸という風習は日本独自のものであり、もともとの仏教にはないものであるが、
ご先祖様の霊あるいは魂がお盆の時期に私たちのところにやってくるという概念は
日本人独自の感覚でもある。

同じ仏教であっても、鎌倉時代にはたくさんの宗派が誕生し、
現在の日本の仏教の各宗派につながっている。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、
日本では戦乱、飢饉、そして疫病が相次いだと言われている。
確かに平氏と源氏が戦ったのが平安末期であり、
そもそも戦いが起きたということは
何かうまくいかない社会情勢がそれ以前にすでにあったのだろうと推測できる。
疫病とはいったい何なのかわからないが、
私たちも今新型コロナウイルスで苦しんでいるが、
当時の日本人も何らかの感染症で苦しんでいたのだろう。
そのような人々のこころが揺れる中で、多くの僧侶が現れ、
現在にその活躍が伝わっている。
いわゆる鎌倉仏教と呼ばれる多くの僧侶と宗派が現れたわけだが、
そんな多くの僧侶の思想を見たときに、
来世で救われるのか現世で救われるのか悩んだのだろうと思う。
しかし、来世で救われると説いた話であっても、
そうであるからこそ現世を安心して生きよと説いたのだと思う。
やはり視点は現世にあったのだと思う。
来世で救われるから、今を生きよ、今をひたすらに生きよと説いたのだと感じている。
仏がそんなあなたたちを必ず見ていると語ったにちがいない。

やはり現世で救われたいものである。
死後の世界があるのかどうか、神の世界に行くのか、それともうまれかわって新しい人間になるのか。
そもそもそんな死後の展開はまったくなくて私たちは死んだら無になるのか。
そんな宗教観は各自の思いに委ねるとしても、
やはり今の人生が厳然と存在することにはかわりない。
どんな宗教観を抱いたとしても、あるいは抱かなかったとしても、
今の人生を生きていくことにはまったくかわりないのである。

人生の困難とはあまりにも大きいものである。
その壁は高く厚いように感じられるのは誰でもそうであるだろう。
私たちは粘り強く今の人生を、今回の人生を生きていきたいものである。
仮に死後の展開があるのだとしても、
今の人生を私たちはひたすらに努力していきたいものである。
仮に死後の展開がなかったとしても、
やはり私たちは今の人生をひたすらに努力していきたいものである。

救いとは何か。
神が救うのか、それとも自分自身で救うのか。
どちらも大変かもしれない。
私たちが協力し、そんな私たちの協力で、人生が生きてゆけるのだとしたら、
その人生は絵に描いたような富、例えば大金持ちとか、絶世の美談美女に囲まれるとか、
そんなものではないかもしれないが、
ただ生きてゆけるだけで私たちは十分救われているのかもしれない。

◆今日の写真
やっと青空になった。
こんな美しい青空は久々である。

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