「がんばったね」という心からの言葉が誰かを救う

人生とはまことにせつないもので、どんなに努力してもまったく何も実ることがなくすべてが水泡に帰するということはある。
そんなときに「がんばったね」という心からの言葉は救いである。
心からそのような言葉を言えるためには、その人をずっと見ていなければならないし、
その人への深い共感はもちろんとして、人間存在への共感が求められるわけだが、
そのような共感をすること自体がとても難しいことは現実である。
忙しい現代日本社会。
日本に限らず、世界人類において、時間がみじかくなり、
誰もが時間をうしなっている現代。
そんな中で、じっくりと共感していること自体が難しい今。
私たちはこころから誰かに共感したり、人間の存在に共感したりできているだろうか。
そんな共感が大事なのである。

よく「がんばれ」と言ってはいけないということが言われている。
今落ち込んでいる人は本当にがんばった人だから、そこにさらにがんばれといっても逆効果であるということで、
それは本当にそのとおりだと思っている。
それを踏まえた上で、共に困難の中にある人間同士が「がんばろう」という言葉には重みがある。
そこにはお互いに深い共感がある。
深い共感がお互いにあるからこそ、「がんばろう」と言い合えて納得するのである。

私が注目するのは過去に対するがんばりである。
「がんばれ」という言葉は未来に対するがんばりであるが、
「がんばったね」という言葉は過去に対するがんばりである。
私たちは誰かの過去のがんばりを肯定したことがあるのだろうか。
過去のがんばりを否定して、未来へのがんばりを期待しすぎてはいないだろうか。
私たちは未来のがんばりを問わず、過去のがんばりを肯定したいものである。
未来へのがんばりを考えずに過去のがんばりを肯定する。
そして過去のがんばりにたいして心から共感する。
そんな共感こそが真の支えであり、そんな支えで人は生きていけるだろう。
そして、その人は自分の意思で自発的に未来へ向かってがんばっていけるだろう。

最近はテクニック的な共感を議論されることが多いように感じている。
励ましとか支え合いとはテクニックではないはずである。
どこまでこころからの共感ができるのか。
そもそもそのためにはその人にこころをよせていなければできないことだが、
私たちはどこまで人のこころに寄り添うことができるのか。
私たちはどこまでこころを通い合わせることができるだろうか。
そこはAIでは不可能な人間の領域であるだろう。

努力が実らずすべてが水泡に帰することはある。
そんながんばりこそ私たちは肯定したいものである。
「がんばったね」という言葉。
それだけで、私たちは未来に向かって歩き出すことができるだろう。

◆今日の写真
雨の予報であったが、今朝は晴れ間がひろがった。
これから雨になっていくのかもしれない。

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