要領よく生きられなくていい

現代日本社会に限らず、人類史的に、要領のよい人間が生き残ってきたことは事実であるかもしれないし、
そんな人が富を集めて社会層の上位層に入って贅沢な暮らしをしてきたこともまた事実だったかもしれない。
特に現代社会は要領のよい人間が求められている傾向があるだろう。
マルチな人間、何でもできる人間が求められる。
単純作業は機械がやってくれるようになり、合理化が図られて人が減らされ、
ひとりが何役もこなす、そんなマルチな人間が今まで以上に求められている現実がある。
そんな中で、ただ真面目に生きるだけしかできないような人たちが生きづらくなっている現実があるように思われる。
私は要領よく生きられなくて全然いいと思う。
真面目で生きるでいい。
ひとつのことしかできなくていい。
才能がなくていい。
何も才能もなく、ただ真面目に生きるだけが取り柄でしかない。
それでいいじゃないかと思うのである。

そもそも縄文時代は全員が自営業的というかフリーランス的というか、
狩猟採集でひたすらに動物や魚を追ったり、山菜や木の実などを探したりしていた。
人間の数もそもそも少なかっただろうし、貴重な人数が協力しながら、
いろいろな性格や才能の人間がそれぞれに協力していたことが想像される。
生きるという必要性の前に、個々の違いは呑み込まれていたのが現実だったかもしれない。
縄文時代の遺跡から戦争をうかがわせるような何かは出土しないように私は感じているが、
生きるという必要性が争いをもこえさせていたことは皮肉である。

弥生時代に入って稲作が大陸から伝えられ、
そこから日本人はサラリーマン的になっていったように思う。
農耕社会は必然的にサラリーマン的な思想にならざるをえないように感じている。
余剰食糧という形で富が集積されると、いよいよ争いが始まる。
武器や防具、堀や塀といった戦争を思わせるものが出土するのは弥生時代である。
弥生時代から昭和時代頃まで、機械が発達せずに人力がすべてだった時代では、
何も才能がなくただ真面目なだけが取り柄であっても十分に活躍する場があった。
真面目であればこそ毎日の単純な農作業に耐えられたかもしれない。
だからこそ日本社会は維持発展されてきただろう。

しかし、第二次世界大戦が終わって昭和後期から徐々に機械化が進み、
単純作業を機械ができるようになると、いよいよ風向きは変わってくる。
これからAIが発達して知能労働的なものも軽易なものができるようになってくると、
ますます人は排除されていくのかもしれない。

これからの時代は、自分の信念に対して真面目に生きていければいいと思う。
要領よく生きられなくていい。
そもそも世の中にあわせて自分の信念を変えて生きていくのは、
それができる人とできない人がいるだろう。
自分の思いや感じ方、それに対して素直に、それを大事にして、
自分に対して真面目にひとつのことに集中して生きていけばいいのだと思う。
サラリーマン的な発想で誰かの信念のもとで真面目に働こうとすると、
そんなのは機械がやってくれるからいらないということになるのかもしれない。
縄文時代的な精神で、自らの創意工夫で仕事を行う。そして仲間たちと協力する。
自分の信念にしたがってひとつのことに集中して真面目に生きていく。
飛び抜けた才能がなかったとしても、自分ができることを成長させていく。
要領よくなかったとしても、私たちは輝くことができるはずである。

真面目に生きるとか要領よく生きられないとか、時としてネガティブに言われがちな現代。
そして生きづらくなっている今。
私はそんな価値観は持たなくていいと思う。
新しい協力関係を作っていく、そんな場をこれから建設していきたいと考えている。

◆今日の写真
雲が多め。雨がふったりやんだりしている。

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