限られた人生のなかで幸せに生きる

人生とは無常なもので、いつ死ぬとも限らず、不治の病にかかっていつ短い余命を告げられるとも限らない。
不思議なもので、私たちは普段の生活の中では永遠に生きていくような錯覚を感じている。
寿命まで生きるということを前提に誰もが生きている。
その寿命まで生きるという時間は永遠にも感じられるのが現実であるが、
考えてみればそれは限りある時間でもある。
時間の長短はあるし、その長短によって意味が異なることも確かではあるが、
私たちの人生の時間は限られている。
その限られている時間をどう生きるかが私たちの課題である。

私たちは永遠に生きていくような錯覚を感じて、
課題を先送りしてしまうのが現実である。
そして今を怠惰に過ごしてしまうのかもしれない。
そして、何か大きな事件事故といったものがあったときに、
限りある人生を感じて焦ったりしてしまう。
毎日の普段の人生を充実させて生きることが大事であり、
毎日を充実させていけば、いざ何かあったときでも、
前向きに生きていけるこころの準備を作っていくことができるだろう。
そして、限りある人生の中で幸せを感じていくことができると考えている。

よく「世界最後の日にあなたは何をしますか?」というような質問があったりするが、
もし仮に今日寿命を迎えるのだとしたら私たちはいったい何をするのだろうか。
重要なのは、そんな気持ちで今日を生きることなのだと思う。
究極的には、今日が地球最後の日だとしても、1億年後が地球最後の日だったとしても、
今日やるべきことは変わらないはずである。
そうはいっても、なかなかそんなことはできないのが人間でもあるが、
明日にできることをあえて今日やることが今まで以上に大事になってきている現代だと感じている。
今日の積み重ねが明日になり、昨日になる。

◆今日の写真
雲がひろがっている。雨が降ったかと思えば晴れたりしている。

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疑問を持っていい

人類の歴史の中で、その時代その地域での数々の常識があったわけだが、つねに疑問を持つ人はいたと考えている。
そのときの一般的な価値観に対して疑問を持っていた人はいて、そんな疑問から新しい説や論が生まれてそれが新しい価値観を作り、世界は発展してきた。そして今に至っている。

例えば宗教。
無宗教的価値観は日本に限らず先進国で増えてきているが、
古代や中世であっても、神はいないんじゃないかと疑いを持っていた人はいたと想像する。
もちろんそんなことを言えば当時の価値観であれば処刑されたかもしれず、
言うことはできなかったと想像されるが、
しかし、神はいないんじゃないかと思った人もまた必ずいただろうと想像される。
科学が発達して唯物論的な考え方が広がってきて、物質的な側面を強調する考え方が現在であるが、
人類はつねに、からだとこころ、物質と精神、世界と魂、そんな二つの軸で世界を人生を見つめてきたことは事実だろう。
こころとはいったい何なのか。
私たちの意識とはいったい何なのか。
現代科学ではまだまだ解明されていない部分はある。
いずれにせよ唯物論的な考え方と精神世界的な考え方は再び合流して、
科学と宗教は合流していくと想像しているが、
すべては世界に対する人間の解釈でしかないと考えている。
現代においても神は存在すると考えている人は少なくないわけだが、
そんな二者の考え方は徐々に近づいていくだろうと想像している。
例えばこれからのAIの発達は、物質と精神という二つの隔絶した次元の価値観について
その隙間を徐々に埋めさせていくことになるだろう。

ガリレオ・ガリレイは物は重くても軽くても同時に落ちるということを
ピサの斜塔から実際に重いものと軽いものを落としてみせて証明した。
当時は地球を中心に太陽が回っていると考えられていたが、
太陽を中心に地球が回っているとも主張した。地動説である。
光には速さがあるのではないかと思い、実験で確かめようともした。
世界に対する疑問、本当にそうなのかという思い、そして確かめる。
自分自身の思いを大切にしたからこそできたことである。
そしてそんなふうに世界に疑問を持った人は数限りなくいたものと想像する。
天体観測をしていて、惑星の動きに疑問を持ち、
もしかして地球の方が太陽の周りを回っているんじゃないか
と思った人はいたのではないかと思う。
しかし、世界の常識は天動説であり、そんな不思議な星(惑星)もあるものだと思うしかなかったのかもしれない。
記録に残っていないだけで、気が付いていた人はもっと古代に数限りなくいたかもしれないと想像する。

疑問を持っていい。
すべては疑問から始まった。
そしてそこへの探究が新しい何かを生みだしていった。
もちろん無理に疑問を持たなくていいし、
新しい何かを生みださねばならないことはないかもしれない。
その上で、私たちは素の気持ちを大事にしたいものである。
自分の感じたありのままを大事にしていい。

◆今日の写真
朝方は小雨が降っていたが、徐々に晴れ間が広がってきた。

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強者だから生き残るとは限らない

人類の進化の中で、数十種の人類が生まれたと言われているが、
現在生き残っているのは私たちホモ・サピエンスただ1種である。
最後に生き残っていたのはネアンデルタール人とホモ・サピエンスの2種であるが、
ネアンデルタール人も絶滅してホモ・サピエンスのみが生き残った。
体格的にはネアンデルタール人の方が力強い体格であり、
ネアンデルタール人の方がより大型獣を仕留めて食料としていたとも言われている。
では、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの違いとは何だったかというと、
声の発声に違いがあったと言われている。
ネアンデルタール人は十分に声が発達しておらず、仲間同士の意思疎通が難しかったのではないかと想像されている。
その点、ホモ・サピエンスはいろいろな語彙で言葉を交わし、仲間と意思疎通を果たし、協力することができた。
その結果として、体格的にはネアンデルタール人ほどではなかったホモ・サピエンスが生き残ったのではないかということである。
そんなネアンデルタール人とホモ・サピエンスの結末を考えたときに、
必ずしも強者だから生き残るとは限らないということを思う。
(何を「強さ」と定義するかは議論があるかもしれないが)

同様のことは生命の進化の歴史において数々起きてきたことである。
初めて陸地に上がったのは両生類と言われているが、
陸地に上がる前のその種は、川の落ち葉が積もったような浅いところに住んでいたと言われている。
川の中央は大きな魚が占領しており、そんな種はたちどころに捕食されてしまう。
大きな魚が来ないような落ち葉や枝が降り積もるような浅瀬というか沼のようなところというか湿地というか、
そんなところに住んでいたからこそ、ひれが発達して手足のように進化していった。
そんな進化していった手足のようなものを使って、地上へと進出した。
一般的に川の中央を占領していた大魚こそ強者と思われるかもしれないが、
そんな強者に追いやられて住みづらかったかもしれないごちゃごちゃしたところで生きていた小さな魚類が
両生類になって地上へと進出していって、後に私たち人類へと繋がっていた歴史を考えたときに、
私たちの祖先はまちがいなく弱肉強食の弱者だったとは言えるのではないかと思う。

恐竜が絶滅したのは隕石の衝突であると言われているが、
恐竜が絶滅したことで、当時は小さな動物でしかなかった哺乳類がいよいよ地上へと広がっていくことになる。
隕石の衝突はたんなる偶然であるかもしれないが、
こんな偶然といえども馬鹿にはできなかったのが生命の歴史でもあった。
地上に木々が発達すると、木々の上で生活するサルの祖先が発達するようになる。
地上で大型の哺乳類に捕食される状況で、樹上という新しい領域に私たちの祖先はフロンティアを見出した。
水中から地上へ、地上から樹上へ、あるいは隕石の衝突など
フロンティアへ進出したり、さまざまな偶然が起きたりと、
そんな中で、私たち人類は生まれていった。
(NHKスペシャル『地球大進化』シリーズなどより)

そんな生命の歴史を考えたときに、
必ずしも強者が生き残るとは限らないということは言えるのではないかと思う。
弱者といえども創意工夫により生き残ることは可能であり、
強者といえども油断して生きる工夫を怠れば、あっというまに滅んでしまう。
それはホモ・サピエンス以後の人類の歴史を見ても、そうであるかもしれない。
私たちは弱いからといってあきらめる必要はない。
弱い者同士であっても協力したときに新しい力が生まれることもあるはずである。
生きることをあきらめない。
私たちもそんな祖先たちのようでありたい。

◆今日の写真
今日は久々に晴れた。おだやかな風が吹いている。

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要領よく生きられなくていい

現代日本社会に限らず、人類史的に、要領のよい人間が生き残ってきたことは事実であるかもしれないし、
そんな人が富を集めて社会層の上位層に入って贅沢な暮らしをしてきたこともまた事実だったかもしれない。
特に現代社会は要領のよい人間が求められている傾向があるだろう。
マルチな人間、何でもできる人間が求められる。
単純作業は機械がやってくれるようになり、合理化が図られて人が減らされ、
ひとりが何役もこなす、そんなマルチな人間が今まで以上に求められている現実がある。
そんな中で、ただ真面目に生きるだけしかできないような人たちが生きづらくなっている現実があるように思われる。
私は要領よく生きられなくて全然いいと思う。
真面目で生きるでいい。
ひとつのことしかできなくていい。
才能がなくていい。
何も才能もなく、ただ真面目に生きるだけが取り柄でしかない。
それでいいじゃないかと思うのである。

そもそも縄文時代は全員が自営業的というかフリーランス的というか、
狩猟採集でひたすらに動物や魚を追ったり、山菜や木の実などを探したりしていた。
人間の数もそもそも少なかっただろうし、貴重な人数が協力しながら、
いろいろな性格や才能の人間がそれぞれに協力していたことが想像される。
生きるという必要性の前に、個々の違いは呑み込まれていたのが現実だったかもしれない。
縄文時代の遺跡から戦争をうかがわせるような何かは出土しないように私は感じているが、
生きるという必要性が争いをもこえさせていたことは皮肉である。

弥生時代に入って稲作が大陸から伝えられ、
そこから日本人はサラリーマン的になっていったように思う。
農耕社会は必然的にサラリーマン的な思想にならざるをえないように感じている。
余剰食糧という形で富が集積されると、いよいよ争いが始まる。
武器や防具、堀や塀といった戦争を思わせるものが出土するのは弥生時代である。
弥生時代から昭和時代頃まで、機械が発達せずに人力がすべてだった時代では、
何も才能がなくただ真面目なだけが取り柄であっても十分に活躍する場があった。
真面目であればこそ毎日の単純な農作業に耐えられたかもしれない。
だからこそ日本社会は維持発展されてきただろう。

しかし、第二次世界大戦が終わって昭和後期から徐々に機械化が進み、
単純作業を機械ができるようになると、いよいよ風向きは変わってくる。
これからAIが発達して知能労働的なものも軽易なものができるようになってくると、
ますます人は排除されていくのかもしれない。

これからの時代は、自分の信念に対して真面目に生きていければいいと思う。
要領よく生きられなくていい。
そもそも世の中にあわせて自分の信念を変えて生きていくのは、
それができる人とできない人がいるだろう。
自分の思いや感じ方、それに対して素直に、それを大事にして、
自分に対して真面目にひとつのことに集中して生きていけばいいのだと思う。
サラリーマン的な発想で誰かの信念のもとで真面目に働こうとすると、
そんなのは機械がやってくれるからいらないということになるのかもしれない。
縄文時代的な精神で、自らの創意工夫で仕事を行う。そして仲間たちと協力する。
自分の信念にしたがってひとつのことに集中して真面目に生きていく。
飛び抜けた才能がなかったとしても、自分ができることを成長させていく。
要領よくなかったとしても、私たちは輝くことができるはずである。

真面目に生きるとか要領よく生きられないとか、時としてネガティブに言われがちな現代。
そして生きづらくなっている今。
私はそんな価値観は持たなくていいと思う。
新しい協力関係を作っていく、そんな場をこれから建設していきたいと考えている。

◆今日の写真
雲が多め。雨がふったりやんだりしている。

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「がんばったね」という心からの言葉が誰かを救う

人生とはまことにせつないもので、どんなに努力してもまったく何も実ることがなくすべてが水泡に帰するということはある。
そんなときに「がんばったね」という心からの言葉は救いである。
心からそのような言葉を言えるためには、その人をずっと見ていなければならないし、
その人への深い共感はもちろんとして、人間存在への共感が求められるわけだが、
そのような共感をすること自体がとても難しいことは現実である。
忙しい現代日本社会。
日本に限らず、世界人類において、時間がみじかくなり、
誰もが時間をうしなっている現代。
そんな中で、じっくりと共感していること自体が難しい今。
私たちはこころから誰かに共感したり、人間の存在に共感したりできているだろうか。
そんな共感が大事なのである。

よく「がんばれ」と言ってはいけないということが言われている。
今落ち込んでいる人は本当にがんばった人だから、そこにさらにがんばれといっても逆効果であるということで、
それは本当にそのとおりだと思っている。
それを踏まえた上で、共に困難の中にある人間同士が「がんばろう」という言葉には重みがある。
そこにはお互いに深い共感がある。
深い共感がお互いにあるからこそ、「がんばろう」と言い合えて納得するのである。

私が注目するのは過去に対するがんばりである。
「がんばれ」という言葉は未来に対するがんばりであるが、
「がんばったね」という言葉は過去に対するがんばりである。
私たちは誰かの過去のがんばりを肯定したことがあるのだろうか。
過去のがんばりを否定して、未来へのがんばりを期待しすぎてはいないだろうか。
私たちは未来のがんばりを問わず、過去のがんばりを肯定したいものである。
未来へのがんばりを考えずに過去のがんばりを肯定する。
そして過去のがんばりにたいして心から共感する。
そんな共感こそが真の支えであり、そんな支えで人は生きていけるだろう。
そして、その人は自分の意思で自発的に未来へ向かってがんばっていけるだろう。

最近はテクニック的な共感を議論されることが多いように感じている。
励ましとか支え合いとはテクニックではないはずである。
どこまでこころからの共感ができるのか。
そもそもそのためにはその人にこころをよせていなければできないことだが、
私たちはどこまで人のこころに寄り添うことができるのか。
私たちはどこまでこころを通い合わせることができるだろうか。
そこはAIでは不可能な人間の領域であるだろう。

努力が実らずすべてが水泡に帰することはある。
そんながんばりこそ私たちは肯定したいものである。
「がんばったね」という言葉。
それだけで、私たちは未来に向かって歩き出すことができるだろう。

◆今日の写真
雨の予報であったが、今朝は晴れ間がひろがった。
これから雨になっていくのかもしれない。

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